カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    イエスの愛に生きる

    2024年4月14日
    イザヤ書61:1~3、ヨハネによる福音書21:1~14
    関 伸子牧師

     復活のイエスは、マグダラのマリア、ペトロと主の愛した弟子に現れ、かつて弟子たちと過ごされたティベリアス湖にも現れます。ここで誰もがこの福音書を読んだときに疑問に思うことがひとつあります。それは第20章において、マグダラのマリアから始まり、甦りになったイエスに会った人たちが何人もいた。弟子たちもそうであった。主にわざわざ訪ねていただいて「平安があるように」と祝福を受け、また、これからの使命をきちっと命じていただいた。しかし、ここを読むとティベリアス湖に戻っていた。私たちがよく知っている名前で言えばガリラヤ湖に戻っていた。なぜでだろう、と問わずにおれません。

     主イエスが弟子たちにご自身を表されるのはこれで三度目のことです。弟子たちは、エルサレムから、ペトロたちの故郷であるガリラヤへと戻っています。最初の時に、弟子たちは聖霊を与えられて派遣されました。その命令を受けて、ペトロが先頭に立って宣教に出かけました。しかし、それはエルサレムの顕現からもう何日も経った後のことです。トマスへの顕現が最初の顕現から「八日目」(20:28)にあり、その後、エルサレムからガリラヤへの移動にかかる日数、三日もあったことになります。

     シモン・ペトロは、この時「私は漁に出る」と仲間を誘い、一緒に舟に乗り込みますが、その結果は惨めなものだったのでしょう。しかし、大漁を目の当たりにしたとき、イエスの愛弟子に「主だ」と教えられ、上着をまとって「湖に飛び込み」、更にイエスの指示を受け、大きな魚でいっぱいの網を引き上げることになります。

     この後、弟子たちの態度に変化が見られます。「すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた」(4節)。だめな時というのは、立ち直るきっかけがすぐそばにあっても、それがわからないことが多いものです。彼らは湖岸に立っている人物がイエスだとは分からずにいましたが、イエスの愛弟子が最初に「主だ」と気づき、陸に上がって朝の食事をするようにとイエスに招かれたときには、「あなたはどなたですか」と尋ねる必要もないほどに、誰もが「主である」と知り、イエスからパンを受けることになります。

     その人(主イエス)は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と続けて言いました。その指示に従うと思わぬ大漁が起こり、ペトロを覗く弟子たちがその網を引いて戻りますが、魚がいっぱいの網は「破れていなかった」という経験をします。

     このような変化はイエスの言葉を軸にしてひき起こされています。なかでも重要なのは「舟の右側に網を打ちなさい」という指示です。その夜は何も取れなかった漁師たちでしたが、しかも、初めはイエスと気づかなかった彼らが、この指示に素直に従いました。この素直さを持つことがなければ、神の言葉が出来事となるのを見ることはありません。

     他の弟子たちも魚のかかった網を引きながら、舟で岸へ戻ってきました。陸に上がってみると、主イエスは炭火をおこし、食事の用意をしてくださっていました。魚が載せてあり、パンもありました。そこへさらに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」(10節)と言われます。

     イエスの顕現を報告する真のねらいはどこにあるのでしょう。この問いを考えながら読み返すと、5節、9節、12節前半、13節に同じモチーフ、すなわち食事のモチーフが現れるのに気づきます。これらの節をつなぎ合わせると、「弟子たちに『何か食べる物があるか』と問いかけたイエスが既に炭火の上にあった魚とパンの他に、今とれた魚を少し持ってくるように命じ、『朝の食事をとりなさい』とパンと魚を分け与えた」となります。このようにみると、今日の箇所の主題が「イエスの差し出す食事」にあると言えそうです。この推測をいっそう確かにするのは5節です。

     5節のイエスの問いかけは、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と、食べ物の有無を尋ねています。使われている動詞は「持っているか」であって「獲得したか」ではありません。しかも、このイエスの問いは否定疑問形なので「あなたたちは食べ物を持っていないだろうね」といった意味です。このことを強く意識して読めば、イエスの顕現の目的は最初から弟子たちに食べる物を差し出すことにあったと言えるでしょう。

     「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった」(9節)と言われるパンと魚はイエスが用意したものでしょう。魚は甦りの主が与えてくださった〈いのち〉なのです。

     イエスの関心は最初から、弟子たちに食べる物を差し出すことにあります。大漁の奇跡が起こされたのも、弟子の食べる物はイエスによって与えられ配られることを知らせるためです。主イエスは弟子たちに向かって、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。「あなたはどなたですか」と聞く人は誰もいませんでした。

     食卓、それは、主イエスが私たちのためにそなえてくださった、生きるために必要な糧が与えられる場です。そして、ここで主は、ペトロに対して、ルカと同じようにくり返してこう言われたことでしょう。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5:10)。たいせつなのは、人間をとることです。主イエスは人間を求め、人間を招くのです。人間を神の国へと招くために、イエスは私たちのもとの来られたのです。

    今日も私たちの中心に復活の主イエスを迎え、イエスと共に世へと遣わされていきたいと思います。お祈りをいたします。