カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • かろやかに生きる

    2017年6月11日
    ホセア10:11-12、マタイ11:28-30
    関 伸子 牧師

     この日に与えられているみ言葉は、マタイによる福音書、第11章の28節以下です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。文語体の翻訳は、「すべて労する者、重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」でした。「すべて労する者、重荷を負う者」という順序になっていました。ギリシア語の原文に戻って考えるとその方が正しく、この訳は「重荷を負うて苦労する」というふうに、日本語として分かり易く順序を変えたものと思われます。

     「あなたがたを休ませてあげよう」と訳されている言葉も、これは、ギリシア語の原文では「わたしが」という代名詞が強調されて、つけ加えられているものです。ただ「重荷を負うて苦労している」というだけではありません。労苦の果て、疲れ果て、あえいでいるけれども、しかもなお、重荷を負わされていることには変わりはない。取り除いて欲しいと願う。しかし、その願いもかなわぬままに、この半年が過ぎた。そういう人びとに向かって、主イエスは、わたしのところに、そのまま来たらよい、わたしが休みを与えてあげる、と言ってくださるのです。
     ここに来たら、「ああ、生き返った」と言うことができる。そのことを願って、私たちは、肉体が疲れ果てる時も、その肉体を励ますようにして、ここに集まり、主の恵みの中に憩い、立ち直る経験を繰り返してきたことを感謝します。

     しかし、ここで主イエスが語っておられるみ言葉を、本当に受け入れることは、そんなに簡単なことではありません。29節には、「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」という言葉があります。この「得られる」という言葉は、英語の翻訳で、「あなたがたの魂の休みを見いだす」と訳してあります。

     実は、ここでの「休みを見出す」という言葉は、「わたしの軛を負い」、「わたしに学びなさい」、そして「あなたがたは安らぎを得られる」、とこのように、三つの言葉を重ねているのです。安息を見いだすということが軛を負うこととひとつのこと、同じことだということです。キリストに学ぶことと同じなのだということです。

     「軛」とはいったい何でしょうか。当時の人々は、この言葉を、おきてを意味するものとして用いました。「軛」とは、もともと重荷を負う時に用いられる道具です。軛があってこそ、私たちは重荷を運ぶことができるのです。神の民、ユダヤの人びとが、神の民にふさわしい生活をするのにどうしたらよいかという問いを抱いたとき、このように生きたらよいではないか、こういうふうに歩んだらいいではないかと差し出された手引きです。しかし、それが人を疲れ果てさせてしまうのです。主イエスは、その時に、「新しい掟を与える」とおっしゃったのです。

     主は「私に学びなさい」と言われました。この「学ぶ」という言葉は、「弟子」と訳される言葉の元になるものです。「私の弟子になれ」とおっしゃっているのです。

     ある説教者が、この箇所について、心を打つ説教を書いています。「軛は軽くなるのだ。それはなぜか。私たちが生きるということの重みをすべて主に委ね、神に委ねることをここで許されているからである」。重荷は、すべて神にお委ねするというのです。考えてみると、まことに厳しく生きる道を教えられた〈山上の説教〉の中で、主イエスは「思い煩うな」と言ってくださいました。生きるための労苦のすべてを、神に委ねて生きることがゆるされる、と言うのです。

     28節から30節までの短い間に、主イエスは何度も、「わたしが」、「わたしの」、「わたしに」と、ご自分のことを繰り返して語っておられます。主イエスが強力な自己主張をしておられるのです。この「わたし」、鍵は、この「わたし」にあるのです。この時の主イエス、それは、このように一所懸命、ご自分をつき出して来られたのに、カフェルナウムの人びとに、ペトサイダの人びとに、無視され、踏みにじられてきた主イエスです。しかし、主イエスは、ここで屈せずに言われるのです。あなたがたが無視している、この「わたし」にすべてがかかっている、と。

     ここで私たちの心を捕らえるのは、39節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」というみ言葉です。イエスは、神の柔和と謙遜そのものです。私たちは、この半年、何をしてきたでしょうか。何よりも、みんなが一緒にしてきたのは礼拝です。礼拝は、英語で「サーヴィス」と言います。「奉仕」と言い表します。礼拝において奉仕するのは、第一には、私たちではないのです。まず主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストが、私たちに謙遜、柔和の限りを尽くして仕えてくださるのです。この28節から30節までのみ言葉について、数多くの説教者が引用する聖書の言葉があるのです。一つは、ヨハネ福音書、第13章が心を込めて描いた、弟子たちの足もとにひざまずいて、汚れた弟子たちの足をお洗いになった主イエスの姿です。十字架の死を目前にして、弟子たちを、そのように愛し抜かれた主イエスの姿です。そしてもう一つは、フィリピの信徒への手紙、第2章の冒頭に出てきます、主イエス・キリストへの賛歌です。イエスは、神と等しくあることを好まず、おのれをむなしくして僕の形をとって、私たちに仕えてくださった、と歌う、キリストのへりくだりのみわざを賛美する歌なのです。

     「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。主イエスは、この言葉を語るために全責任を取られ、柔和で謙遜な僕となられたのです。そして、そのことが本当によく分かった時に、主イエスが弟子たちの足を洗いながら、「わたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである」と言われたのが、なぜであったかもわかるようになるのです。そのようにして、私たちも、私たちなりに柔和と謙遜に生きることを覚えるのです。神の栄光を歌い、人に仕えることのかろやかさを知りながら、私たちはこれからの半年を過ごしたいと思います。お祈りをいたします。