カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • キリストの理想

    2017年6月25日
    イザヤ書65:8-16、マタイ5:13-16
    関 伸子 牧師

     6月の礼拝の生活は、今日で最後です。来月7月に入ると、私たちの教会の伝道が始まった月となり、またこどもたちは夏休みが始まり、学校、家族とのイベントが多くなります。

    そのような月に入ろうとする時、この「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」という、主イエスのみ言葉を読むことには、たいへん意味の深いものがあると思います。なぜかと言うと、この主イエスのみ言葉は、言ってみれば、主イエスの私たちについて抱いておられた理想が語られていると思うからです。

     富士見町教会を創設した牧師植村正久先生の説教に、「生活の理想」というのがあります。それは、この主イエスのみ言葉の14節、「山の上にある町は隠れることができない」に基づくものです。この聖句は、当時用いられていた聖書の翻訳で言うと、「山の上に建てられる城は隠るることを得ず」です。そこで説かれたことは、要するにこうです。私たちはとかく平地に城を建てたがる。その方が容易だからである。山の上に城を築くのはむずかしい。私たちは安易の道を選びやすい。しかし、主イエスは、山の上に城を築くことを求められる。これに先立つ主のみ言葉に従い、心貧しく、柔和で、悲しみに生き、と辿ってくると、当然、山の上に登らざるを得ないのではないか。主イエスが教えられる信仰の生活は、神の罰を恐れてびくびくしたり、ただ自分だけが、天の会堂、天の礼拝所に、ひとりのぼって、しあわせを全うするというようなものではない。それはキリスト教徒の志ではない。それならば、ここでいう地の塩、世の光とは何か。それは主イエス・キリストそのものだ。キリストそのものであるこの理想に生きる。

     とても大胆な断言です。この望みに生きるのは、特別に高い志に生きる者というのではなくて、およそキリストに生きるすべての者はそうなのだというのです。

     主イエスは、しかし、あなたがたは、「地の塩」にならなければならないとか、「世の光」にならなければならないとは言っておられません。これからそうなるだろうとおっしゃっているわけでもありません。また、あなたがたの中の選ばれた僅かな者だけが、塩であり、光であるに値するとおっしゃっているのでもありません。あなたがたすべてがそうだと言われます。山上の説教の最初で、心の貧しい者、悲しむ者と呼びかけてくださった私たちです。この私どもが、「地の塩であり、世の光である」と、主は言われるのです。

     地の塩であることをやめ、光が光でなくなるとすれば、それは不自然なことです。主イエスは、それと同じように、私たちが人びとを照らす光であることをやめたら、それは不自然なことだと言われるのです。理想主義と自然主義というのは対立するのが普通です。日本の文学の世界でも、道徳的で善良な人間像を描くと理想主義だと言われ、背徳的な自堕落な人間像を描くと自然主義だなどと言ったのです。しかし主イエスにおいては、理想と自然の対立ではないのです。主イエスにおいてはひとつなのです。

     「地」、それは大地です。そこで生を営むこの世です。この世の生活の中に、塩として働くものは、姿を隠しています。料理の中に、塩が入っていることが、目に見えるようであったら塩からくて食べられません。塩は自分の姿を隠します。その食べ物の味を生かすためです。本当の甘味を生かすには、やはり少量の塩が必要だと言います。しかし、塩からいと人が思う程に塩味がきいたら、何もかもぶちこわしです。塩が塩本来の働きをするには、自己主張をしてはいけないのです。

     「光」はそれと逆です。光は輝かなければなりません。その存在を明らかにしていなければなりません。しかし、光も何のためにあるかと言えば、暗いところに光を投げかけてあげるためです。照らしてあげるのです。やたらに明るくて、ひとの目がくらむようなら、それは光の役を果たしません。他のものが目に入らない程に輝きに満ちることはゆるされません。高いところに置かれるのは、それだけよくまわりを照らすためです。

     姿をあらわしてもよく、隠してもよい。いずれにせよ、そのように私たちが存在することによって、この世は腐敗せず、全くの暗黒にならず、従って滅びることもないのです。そこに一貫して語られていることは、私たちがここに生きていることによって、他者が生きているのだ、ということです。教会の理想は、まず第一にそのようなものです。教会が抱く理想、それは、もっと大きな礼拝堂を手に入れよう、という夢を、いたずらに抱くことではありません。

     主イエスの理想主義はしたたかなものです。ゆるがぬ希望を持っています。しかし、この主に支えられない人間の理想は、案外腰が弱いのです。すぐに、何かにつけて、ぐらぐらしてしまいます。もしかしたら滅びるぞと思ってしまいます。だがしかし、主イエスは、この世についての望みを捨てておられないのです。この主イエスの理想に示される神の望みによって、人間は望みを失わずに生きうるのです。地の塩、世の光として生きるということは、この望みによって生きるということです。

     この世の滅びの防波堤になってくださった主が、このみ言葉を語っておられます。それこそ、身体を張って、私たちを「地の塩、世の光」と呼んでくださいます。私たちはこの主にすべてを委ねるより他になすべきことはありません。この、ご自身こそ、地の塩、世の光の名に値する主に生かされる以外にないのです。そしてその時、私たちもまた、主に似た塩、世の光になるという奇跡が始まるのです。お祈りをいたします。