カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 怒りを捨てて

    2017年7月2日
    エゼキエル18:25-32、マタイ5:21-26
    関 伸子 牧師

     私たちが今読む聖書、たとえばマタイによる福音書の原稿が今もなお残っているわけではありません。こういう聖書の写本についてのひと通りの知識を、神学生時代に勉強するのが通例で、ギリシア語の聖書を読むと、本文の下に、さまざまな写本における相違を指摘している欄があります。いろいろな違った写本の伝える言葉から、最初の原稿の文章を推測するのもおもしろいのですが、逆に辿ってみて、おそらくこれが原文だったろうと思われるものが、つぎつぎと書き写されていく間に、どのような変化をしてくるかを見ていくのも興味あることなのです。

     ところで、私たちにこの朝与えられているところでは、22節に、「兄弟に腹を立てる者」という言葉があります。この文章を、「兄弟に対して故なくして怒る者は」と書いている、かなり有力な写本があるのです。

    今日においても、この「故なくして」という言葉を入れて訳しているものがあります。紀元二世紀、教会の歴史始まって間もなくの頃、すでに信仰者たちの中に、主が、「およそ教会に怒りを覚える者はさばかれる」と言われたのは、いくら何でもきつすぎると思った人があるのです。たとえば親が子に対して怒りをおぼえたり、若者が世の不正に対する憤りをおぼえたりする、こうした怒りには正当な理由がある。神ご自身も怒ることがあるのではないか、と考えたのかもしれません。

     熊野義孝先生の『キリスト教倫理入門』というおもしろい本があります。キリスト者の生活について、内容豊かな叙述をしています。その中に、ひとつの項目名として、「それでもわれわれは怒る」という言葉が出てきます。こういう表現を読むと、むしろ、私たちは安心します。しかし、それはすでにおそらく、熊野先生の書物をも、勝手に解釈することになると思います。

     しかし、この箇所の、今日大勢を占める意見は、「故なくして」を取ってしまうのです。ある人がこう言っています。故なくして怒ることは過ちである。怒りには常に理由がある。常に正当だと自分では思いこみうるような理由は、必ずある。

     この人の言うことは、その通りだと思うのですが、如何でしょうか。親が子を叱りつけている時に、子どもも腹を立てて言い返す。その時は、子どもにも正当な理由があるのです。そこで正義と正義の正面衝突になります。自分の方が正しいと思っています。それが不当に扱われるから腹を立てるのです。怒りは常に正しいのです。怒る者からすればそうとしか言いようがないのです。

     主イエスが怒りを語られる時、同じことが問われています。私たちが怒る時、それは、正しさの主張に他なりません。この21節以下の部分に先立つ20節においては、私たちの義が律法学者・ファリサイ派の人々にまさるべきことが語られていました。そして、義に生きる者のひとつの特質は、怒りであると考えられてきました。

     主イエスはここで、「怒る」ということを、とても真剣に、とても深刻に受け取っておられます。21節のはじめに、「殺すな」という戒めが述べられている。これは、モーセの十戒の第5番目の戒めです。この戒めを破った者は裁判に付けられる。そのことはまた、さまざまな律法の定めるところです。

     主はここで、殺すなという戒めを、語り直されたのです。どこを言い換えられたのでしょうか。私たちの義が、律法学者やファリサイ派の人々にまさって、満ち溢れるものとなるために、主が戒めを全く新しくされました。

     そのことを問い尋ねるために、22節を少し丁寧に読んでみたいと思います。この一節は、三つの大変よく似た文章の積み重ねです。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」、「『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され」、「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」、と言うのです。どうしてこのようになっているか。その意味を問うことが、解釈のひとつの鍵になります。たとえば、それぞれの文章の後半ですけれども、これは、裁きを受ける、最高法院に引き渡される、火の地獄に投げ込まれる、というふうに、三つの段階が語られています。最初の「裁判」というのは、地方裁判所のようなものでしょう。その次の「最高法院」というのは、70人の議員から成る最高裁判所のようなものです。人間の裁きはそこで終わる。その上は神の裁き、つまり地獄への裁きということになります。

     主がここで語りかけておられるのは私たちです。私たちはそれぞれに幼い時から、つらい経験を持っていると思います。不当な非難、罵りを受ける。それはつらいものです。腹が立つものです。何を! と思うけれども耐えなければならない。そういうくやしい思いをします。そういうひどいめに遭う時、自分は正しくて、相手の非難は間違っていると思うけれども、しかし、神を知らず、信じることがなかったら、ごく自然に、ああいう非人間的なところに身を置いていたと思うことがあるのです。

    信仰を持つようになったらそれで安心だとは、主イエスは言われないのです。この裁判官は、もとより神ご自身です。祭壇に備え物をするのは、その神さまと仲直りをすることです。神と和解をするのです。

     主がここで、このようにして、私たちに求めておられることは、自分の義を自分の思う通りにたて、貫くという一点から世の中を見、生きていくということをよせということです。私たちは、自分で正しいと信じている道を生きる時、まわりの世界がそれを助けてくれるはずだと思いこみます。現実の世は私たちにさからいます。主にさからったように、私たちに手向かうのです。そこで主は、まさしくそこでこの世を愛しなさいと言われるのです。世の中にとびこむのです。どこにでも兄弟を見出すのです。そして私たちに先立って、主がこの世を愛しておられることを確認するのです。お祈りをいたします。