カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 喜んで働くために

    2017年7月9日
    コヘレト5:12-19、マタイ6:24-34
    関 伸子 牧師

     今日、わたしたちに与えられたマタイによる福音書第6章24節は、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。……神と富とに仕えることはできない」で始まり、「思い悩むな」と説く主イエスの言葉に入ってゆきます。誰もが「思い悩むことのない人生であったらどんなによいことだろう」と考えながら、思い悩んでいます。

     主イエスは、続いて「空の鳥を見なさい」と言われました。(26節)。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われました(28節)。こう言い換えることができます。私たちの生きる姿の特質、それはどこにあるかと言うと、「思い悩み」を持たないという点においてです。

     主イエスが、ここで、たいへん丁寧に、「思い悩むな」と繰り返し語っておられること、それは人間の一番大きな問題のひとつが、まさしくこの思い悩みであり、この思い悩みからの解放なしに救いはないと、考えられたに違いないのです。

     ドイツの牧師クリストフ・ブルームハルトがした説教の中に、あるおばあさんの話が出てきます。とくに教養があるわけでもない、そのおばあさんに触れて、若者が、あのおばあさんのように、思い悩まなく生きたいと言うのです。

     「思い悩むな」と主は言われます。しかし、この地球の上に、生きる私たちにとっての深刻な問題は、石油に代表されるように、資源がいつ枯渇するかわからないということです。こんなことで、あすはどうなるのだろうか、あさってはどうなるのだろうか、私たちの子どもたちは、どんな時代を生きるのだろうか。私たちの心は、将来を思う時不安が溢れます。もう戦争はしないという決意をしたのに、憲法9条を変えて、戦争ができる国にしようとしていないか。そういう私たちに対して、主イエスは、「思い悩むな」と言われるのです。私たちは、この主イエスの言葉を、どれだけ真剣に聞いているでしょうか。

     しかし、「思い悩むな」ということは、「働きもせず、紡ぎもしない」ことなのだから(28節)、働くことをやめればよいのでしょうか。単純にしすぎているかもしれません。そこで大切なのは、34節の、最後の言葉です。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。「思い悩むな」というみ言葉は、ここでは、「明日のことを思い悩むな」というふうに言い換えられています。「明日のことは、明日自らが思い悩む」。あるもまた、労苦の一日がくるのです。なぜ主イエスは、ここで、明日についての思い悩みを語られるのでしょうか。

     そこで改めて、ひとつの小さな言葉に、心をとめたいと思います。「だから、明日のことまで思い悩むな」。「だから!」。明日のことを思い悩むな、と言われるには根拠があるのです。思い悩まなくても、すむようになることがあるのです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、これらのものはみな加えて与えられる。だから……」(33節)。神の支配が、どうしても見えないと思うような暗い現実にあって、神さま、あなたの支配を見させてください、と祈るのです。

     この説教のあとで、ヘンリー・ニューマンの賛美歌460番を歌います。「行くすえ遠く見るを 願わず。よろめくわが歩みを 守りて ひと足 またひと足 導き 行かせたまえ」(2節)。ひと足、でよいのです。それも、また思い悩みを捨てて、今日一日を、生きる労苦に生きる思いです。このように考えてきた時、はじめて、25節の、主のふしぎな、み言葉の意味も明らかになると思います。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。ここで「命」と訳されている言葉は、魂とも訳される言葉です。人間の全存在を意味する言葉です。

     神に造られ、愛されている者のいのちの尊さは、どんな邸宅からも、はみ出す値打ちを持つのです小さなあばら家に住み、貯えもないからと言って、私たちのいのちの値が、減少するわけでもないのです。私たちは神の子です。天に父を持つのです。その父なる神が私たちを大切にしてくださるそのなさり方は、私たちが、衣食住について思い悩みつつ自分を大切にするやり方よりも、もっとずっと深く、もっとずっと大きいのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

     30節で、「信仰の薄い者たちよ」と、主は言っておられます。この言葉は、「信仰の小さい者よ」と訳してもよいのです。

     さきほど、ご紹介したドイツの牧師クリストフ・ブルームハルトの説教の中で、自分の父について語っています。その父は霊的な力に富んだすぐれた牧師であって、今も、その名が残り、その影響が残るほどの人でした。その息子もやがて同じ牧師になる。ところが、まわりの人の言葉が聞こえてくる。息子のやっていることは、父親の粋を少しも越えてはいないではないか。彼はそれを聞いて悩みました。自分でも、そのことが気になったのです。しかし、やがて悟ります。父に起こったのは、神の恵みの奇跡だ。その恵みの奇跡の中に生かされた人だ。それを自分も願ってなぜ悪いか。こうして、このブルームハルトは、父と並び、いや、父にまさるすぐれたキリストの恵みの証人として、立つようになったのです。

     私たちも、同じ恵みに生きています。家族の中で、愛する人びとの中で、あかしをたてるのも、この恵みの奇跡を、みずから生きるということにかかってくるのです。私のようなものも、神の恵みの中に生きている。私を見てください。恵みによって生きることは、こんなにもすばらしい! 毎日つらいこともあるが、しかし、思い悩まないで、生きることができることを、身をもって、あかしすることができるのです。それは、私たちの誰にでも与えられている主の恵みです。その恵みの主であられるからこそ、主は言われるのです。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。お祈りをいたします。