カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の贈りもの

    2017年7月16日
    エレミヤ6:16-21、マタイ7:7-12
    関 伸子 牧師

     自由学園の創始者で、今も、全国的に大きな組織を持つ、友の会を始めた人でもある、羽仁もと子という人は、信仰を日常的に生きるということを、真剣に、誠実にやった人だと思います。信仰を持って、具体的に生きることを教えた、すぐれた教育者です。それこそ献身的に生きた人です。

     この羽仁先生の書いた文書の中に、こういうのがあります。人生を生きていくのに、ふたつの動力が働いている。ひとつは、「やってみよう」という力である。もうひとつは「やったってどうせだめさ」と、やろうとする心を抑える力である。このふたつの力が人生において、いつも働いており、そのため、われわれは苦労する。学校の勉強でも、「よし、やろう」という気持ちと、「やったって駄目さ」と思う気持ちがあって、あとの方が強くなってしまう。そのうちに、人の世は、鉛のように重いものだと思うようになるのではないか。羽仁先生はそう問うのです。

     主イエスは、「求めなさい。捜しなさい。門をたたきなさい」と、畳みかけて、そこで、私たちに呼びかけておられます。それはまさしく、そのように、鉛のように重くなり、沈んでいく、私たち自身の心から脱出しなさい、ということです。

     私がこどもの頃は、花の日の行事というのが教会学校にありました。この花の日の行事は、6月の第二日曜日に行います。中学校、高校生が、礼拝の後、花を持って、病んでいる方、高齢の方たちを訪ねます。花を持って尋ねたら、いつでも、必ず喜ばれるとは限らないのです。病んでいる人にとって、美しい花や、若々しい人たちの顔を見ることが、つらいことだってあるのです。

     教会学校の教師たちは、いろいろ苦心して、家庭や、あるいは、訪問の相手の方たちにも、この行事の主旨を明らかにしようと努力し、文書を作ったと聞きます。その中で、これは「献身の行事」だということが強調されたのです。私たちの献身のしるしですと言って花を持っていくことは、勇気のいることです。

     しかし、献身、それは特別のことではありません。主の教えは、愛につきる。花の日の行事は、改めて愛に生きることを教える。しかし、私たちは、その愛において、相手の姿が、隠れているためにつらい思いをします。私たちが、一所懸命愛に生きようとしても、それを受けとめてくれる相手の姿が、見えなくなるのです。その時に、あなたが見ているのが、本当の神に造られた世界の姿ではないのだ、神に造られた人間の姿は、このように美しいのだと、神に教えていただかなければなりません。それを、神に求めなければなりません。

     教会で教える者は、自ら学び続ける者です。なぜ、学び続けるのか。神の真理がそれほど深いからです。しかも、いつも新しいのです。そして、この求道の旅は、必ず見つかるとの約束によって、支えられているのです。

     この主の言葉、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」というみ言葉は、ルカによる福音書11章にも記されています。この第11章は、まず、主の祈りが主によって教えられ(1-4節)、それから、どうしてもパンに不足して、真夜中に友人のところに、三つのパンを貸してもらいに行く人の譬えが語られます(5-8節)。真夜中にパン三つなどとは、と面倒がって起きない人も、一所懸命、何度でも頼めば、起きて助けてくれるというのです。そのあとにこのみ言葉が続きます。つまり、ルカは、求めるとは、何よりも、祈りであると理解しているのです。

     「求めなさい。探しなさい」、そう呼びかけられて、求めるのは、私たちがほしいと思うものは何でもよいというのではありません。

     このみ言葉は、〈山上の説教〉のしめくくりの言葉として、語られています。〈山上の説教〉で語られた世界は、神の世界です。そして、神が造り、私たちに、プレゼントしてくださる世界です。私たちが、そこに生きることができる世界です。今私たちは、心をひとつにして求めるのです。神よ、門を開いてください。私たちもしているこの醜く、疲れ、惨めな世界だけが、現実ではないのですね、美しいもの、主の語られた愛の道こそ、本当に確かな歩みなのですね。どうぞ、そのことを見せてください。そう言って神のみ胸を叩くように祈るのです。

     倉田百三の『愛と認識の出発』という、かつて、誰もが読んだ有名な書物の中の言葉で、今でもよく覚えているものがあります。それは、「愛はただ祈りにおいてのみ、その完全な成就を得る」というのです。クリスチャンの友人が、自分の愛する者の病気が治るように祈るのを聞いて、羨ましく思ったと書いていました。そして、この「愛は祈りにおいてのみ全うする」と言う言葉を、その後も、何度も思い起こしました。「祈りにおいてこそ愛は自由になる」。そういう言葉も書いています。その通りです。そして主は、この求め、この祈りは聞かれる、なぜならば、その祈りを聞くのは、「天にいますあなたがたの父」だからだと言われます(11節)。

     さきほどご紹介した羽仁もと子さんの文章に、こういう表現が出てきます。あの、「どうせ駄目だ」という心は、人間の心の中に、巣食うばい菌みたいなものだ。しかし、悪い菌も日光にあてれば死滅する。日光消毒すればよい。同じように、神の光に照らされた時に、この心のばい菌は死ぬ。神を信じない罪の心がそこにある。その根を断ち、育たなくするのは神の光である。私たちは、その時、よし、やってみようと奮い立つ。そして、そこに生きる時、「私たちは、溢るる恩寵の内に、不思議な喜びを経験する」のだと言い切るのです。これが、言える人はすばらしいと思います。そして、私たちはみんなこれが言えるのです。

     神の贈り物、それは何よりも、このすばらしい言葉を語ると共に、この言葉が、私たちの現実となる道を、ご自身の死と甦りによって開いてくださった、神の愛そのものである、主ご自身なのです。お祈りをいたします。