カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

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  • 何が人生を充実させるのか

    2017年7月23日
    エレミヤ17:5-8、マタイ7:15-23
    関 伸子 牧師

     今日は東小金井教会が、1964年7月26日に最初に礼拝をささげた日から53年経ったことを覚えながらささげる東小金井教会設立記念主日礼拝です。1968年に、この場所に移り、この教会堂で、みなさんは礼拝をささげてきました。教会堂には、固い木の椅子が並んでいます。もっとも、長い礼拝の歴史において、みんなが、腰かけて礼拝するようになったのは、そんなに古い、昔のことではありません。今日でも、教会の礼拝の、最も古い形を保存していると思われる、ギリシア正教会の礼拝堂に入ってみると、座る座席はありません。しかも、二時間も三時間も続くことがある礼拝をするのです。礼拝の間、ずっと立っています。そして、座席を作った時にも、ゆったりと、できるものではありませんでした。それは、なぜなのでしょうか。そのひとつの理由は、居眠りなどさせては、いけないということです。

     礼拝すること、それこそが、私たちにとって生きることです。ここにおいて、このように生きることは、すばらしいことだ、という体験をすることがないと、教会になぜ来るのか、改めて問い直さなければならないと思います。

    〈山上の説教〉を読み始めて、その終わりに近づいています。「狭い門から入りなさい」(13節)に始まる、狭い門、細い道を見出し、そこからはいれ、という主の教えに続いて、「偽預言者を警戒しなさい」というみ言葉が始まります。なぜ、ここで、このようなことを語り始められたのでしょうか。

     「警戒しなさい」と主イエスは言われます。偽預言者に対して、警戒するのです。警戒すると訳されている、この言葉は、それこそ居眠りするということとは、正反対で、目をさましていること、心を集中させ、目をこらして、じっと、あるものを見つめるということです。それほどに注意深く警戒するのです。日本語で言えば、「目を皿のようにして」、ということであるかもしれません。

     この偽預言者は、「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来る」と主イエスは言われます。つまり、信仰者をよそおい、登場するのです。

     実は、それどころではありません。22節に、こう語られています。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。終わりの日になって、主イエス・キリストの前にたって、主に向かって、あなたの名、つまり、主イエスの名によって、神の言葉を語ってきました、力あるわざ、奇跡をすら行ってきました、と言うのです。

     このマタイによる福音書を、生んだ教会、これを書いたり読んだり、していた、人々の属していた教会もまた、このにせ預言者との戦いを強いられていたにちがいありません。初代のキリスト者の指導者のひとりであった、使徒パウロも、その手紙に、はっきり読みとるように、教会内の偽預言者との戦いに明け暮れたのです。

     キリスト教会が、その新しい生命を、回復した宗教改革もまた、同じ戦いでした。アルブレヒト・デューラーの「四人の使徒」という絵があります。デューラーは、絵画をもって戦った、宗教改革者です。原画は、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークという美術館にあります。この美術館を訪れる者は、何気なく、この絵の前を通り過ごすことなどできないほどの、激しい力を、秘めたものです。眼光鋭く、容貌魁偉と言うべき、四人の男の全身像が描かれています。四人の使徒、ヨハネ、ペトロ、パウロ、そしてマルコの姿です。デューラーもまた、偽預言者との戦いのために、この対策を書いたのだそうです。

     デューラーと共に戦った改革者ルターは、こういう、偽預言者を見分ける目を持つ者は、誰よりも信徒たちであると言っています。牧師、教師の方が、あぶなっかしいのです。神学者も危ないのです。その時、信徒たちが、健全な目で、偽預言者の正体を見抜くのだと言うのです。しかし主イエスは、お互いに疑いの心を、持てと言っておられるのでしょうか。

     この15節から23節までの部分で、おそらく、最もよく知られているのは、21節です。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。そして、このみ言葉と、「すべて良い木は良い実を結び」(17節)という、み言葉とが重なり合ってきて、しばしば、こういうふうに誤解されたと思います。ここで、主が言っておられることは、「主よ、主よ」と口先で言っているだけではだめだ、実行しなければならない、やがてはむしろ、不言実行こそ主の教えということにまでなるのです。

     「わたしの天の父の御心」と主イエスは、言われました。この「われらの父」の御心が、ここで明らかになっていることを、誰が否定しうるでしょうか、偽預言者と戦い続けたパウロは、その戦いの中で、「キリストから離れるな、恵みから落ちるな」と言い続けました(ガラテヤ5:4)。「十字架につけられたイエス・キリスト」から目を離すなと言ったのです(ガラテヤ3:1)。偽預言者、それは、このキリストの恵みから落ちた者です。十字架から目を離した者です。十字架よりも、自分がやったよいこと、自分が実らせたよい実に、目が移ることに生き甲斐を感じる者なのです。正しく生きる道は、このキリストから、離れないことにあります。

     私たちが、実らせる実の良し悪しによって、私たち自身である木をよくしたり悪くしたりするのではありません。私たちはすでに祝福のうちにあります。神の子として生き始めています。自分を生かす、神のよい恵みから出発すればよいのです。

     今ここで、真実に私たちの魂と肉体が、目覚めることを祈り求めたいと思います。そのことのために、私たちの心をひとつにして祈りを集めたいと思います。