カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の招きの新しさ

    2017年8月6日
    ホセア6:1-6、マタイ9:9-13
    関 伸子 牧師

     8月3日から、代々木オリンピックセンターを会場として、アジア青年交流会(AYG)が開催されています。今日はこのイベントに参加している青年たちが6~10人ずつに分かれて、日本中会の各教会の礼拝に参加しています。私たちの教会でも、青年たちとともに礼拝をささげることができますことを主に感謝します。

     「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がって、イエスに従った」(9節)。今朝、与えられている、マタイによる福音書の記事は、このように始まります。ここに登場するマタイの名は、たぶん、同じ人のことであろうと考えられるのですけれども、このすぐ後の第10章の3節に、主イエスに選ばれた12人の使徒、その中の一人として記されています。私たちが学んでいる、この福音書は「マタイによる」と書かれています。

     マタイは徴税人でした。徴税人は、聖書の中では、いつも罪人と並んで出てきます。それは今日の税務署の役人とはずいぶん違うので、事情がわかりにくいかもしれません。

     当時のユダヤは、ローマ帝国に支配されていたので、税金は、基本的にローマ帝国に納めるためのものでした。しかしその徴税を、現地のユダヤ人に委託していたので、徴税人はローマの手先として嫌われ、ローマに魂を売り渡した者として軽蔑されていたのです。一方、徴税人たちのほうでも、嫌われ、軽蔑される中で、金を頼りとして生き、ローマの権力をバックに不当なお金を、ずいぶん巻き上げていたようです。

     別の徴税人ザアカイが悔い改めた後で、主イエスに「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)と言ったことは、徴税人が不当な利益を貪るのが当然であったことを物語っていると思います。

     「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がって、イエスに従った」(9節)。これは非常に簡潔な書き方です。彼が主イエスに従ったのには、恐らく彼なりの理由や背景があったことでしょう。長い間、自分の仕事に疑いをもっていたかもしれないし、嫌気がさしていたかもしれません。そういうなかで、イエス・キリストだけは、これまでの誰とも違うまなざしで彼をご覧になったのでしょう。

     しかしイエス・キリストがマタイを召されたのは、マタイがお金を取り扱うのに有能であったからではありませんし、だましたり、脅したりするのに長けていたからでもありません。それはただイエス・キリストがマタイに目を留められたからでした。神、そしてイエス・キリストは知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者よりも、無学な者、無力な者を選ばれるのです(コリント一1:26~30参照)。私たち人間はその人にどれだけの価値があるかに目を留め、社会での有用さによって、人に上下をつけますが、主イエスは、その人がどれだけ自分を必要としているかに目を留められるのです。

     ファリサイ派の人々は、この恵みの招きにつまずきました。彼らは、主イエスが徴税人マタイの家で、他の徴税人や「罪人」たちと食事をしておられるのを見て、とんでもないことだと思いました。そして主イエスの弟子たちに問いかけます。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(11節)。

     そのようなファリサイ派の人々に向かって、主イエスは、こう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(12節)。そして、旧約聖書ホセア書の言葉を引用しつつ、こう続けられました。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13節)。

     主イエスが引用された言葉、旧約聖書ではこうなっています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)。ホセアは、徹底した神の愛を説いた預言者でした。どんなに人が神を裏切ろうとしても、神は人を見捨てることなく愛し続けるということを語りました。

     主イエスは、そこから出ていって、「憐れみ」を学べと言われます。そこには、「私たち自身が憐れみ深い人間であるように」ということと、「主イエスの生き方の中にこそ、本当の憐れみがあり、私たちもそれを受けているのだということを悟れ」ということの両方の意味があるのでしょう。主イエスは、私たちの罪の癒しのためにこそ、この世界に来てくださったのです。罪は癒されなければなりません。

     これから聖餐式をします。憐れみはここでこそ学ぶことができるのです。主イエスは、徴税人の重荷を取り去るために、徴税人に対して「おまえは罪人だから、その罪のために死ね」とは言われなかったのです。しかし、ご自分が死なれたのです。そして、神の前に立って、「この徴税人も、このファリサイ派の人々も、どうぞ神よ、審かないでください」と言われるのです。これは弟子たちには言えなかったことです。

     主イエスだけが、語ることができたのです。そして、神の前に立ちはだかって、神の審きをご自分のからだで全部引き受けられながら、うしろにいる私たちに向かって「さあ、立って神の憐れみの前に立つのだ、そこにしか、差別を乗り越える道はない、人を裁くことを止める道なのだ」と言われるのです。

     今日は8月6日です。広島に原爆が落とされた日です。それと、今、ここで語られている聖書の言葉とは何も関係もないようです。しかし、私は違うと思います。原爆のエネルギーをも、吹き飛ばす神のエネルギーが、この主の食卓に込められていることを信じない者は、この世に本当に平和をもたらすことはできないと、私は堅く信じています。お祈りをいたします。