カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスの願い

    2017年8月13日
    詩71:14-19、マタイ9:35-38
    関 伸子 牧師

     清水恵三という牧師が書いた『辺境の教会』という書物を読みました。農村伝道神学校という学校の教師をしておられた時に、その学校の卒業生の派遣されている教会を中心に、ほとんど日本全国を旅行した報告です。

     地方の教会で教師たちが、私の先輩格にあたる牧師たちが伝道しておられます。日本の社会、そして、日本人の心の壁は厚く高いのです。

     単純素朴に問わなければならないのは、伝道の意欲、伝道に対する情熱が燃え上がることをなぜ求めないかということです。マタイによる福音書第9章35節以下の言葉で言えば、「主イエスの願い」です。主イエスが今どんなに深い、熱い思いを持って、日本の救いを願っておられることかと思わずにおられないのです。

     35節に「イエスは、町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と書いてあります。この35節の言葉は、実は、今日初めて、ここで目にする文章ではなくて、同じマタイによる福音書が、すでに、第4章の23節に、ほとんどこれと同じ言葉を記しています。主イエスが、いつもしておられたことを、いつも同じ言葉で書いたのです。

     そして、さらにここで大切なのは、第10章の1節です。「御国の福音を宣べ伝え」という第9章35節の言葉が、ここに繰り返されています。マタイは主イエスのみわざを同じ言葉で語りながら、それを主イエスのみわざの表現としてだけにとどめないで、第10章では、もう一回それを繰り返すのです。そして、その時にはそれを弟子たちのわざとしても語る。この弟子たちから教会の仕事が始まったのです。

     もうひとつ大事なことは、これが、どうして34節までの記事に続けて、書かれているかということです。主イエスが、あれだけ心を込めて愛のわざをなさったのに、人びとは、主イエスを正しく理解しなかったということです。主イエスは、病を癒される。今まで、口をきけなかった者が、口をきけるようにしてくださる。

     そこで、人びとは主イエスに「わたしのことは話をするな」と言われながら、喜びのあまりかどうか、分かりませんけれども、主イエスの教えに背いて主イエスの話をして歩く。主イエスは、そこに人びとの愚かさをご覧になったに違いないのです。

    おそらく人間が、一番よく使う人を罵る言葉は、「馬鹿」という言葉でしょう。子どもの時から、それを覚えているのです。夫婦の間でも「おまえは馬鹿だ」と言い合っているようなのが、私たち夫婦の生活だ、と言ってよいかもしれません。

     主イエスは、私たちの誰よりも、そのような人間の愚かさが、よく見えていた方です。しかし、主イエスは、いつものように、すべての町々、村々を巡り歩き、なすべきことをなし続けられるのです。

     「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れまれた」。「深く憐れむ」と訳されている言葉の語源は、〈はらわた〉です。〈内臓〉と言ってもよいのです。その「内臓が痛む」、「はらわたが痛む」という言葉であったのです。これほどに、はらわたが痛むほどに、愛を注ぐ神というのは、当時の人の知らない、神の姿でした。当時の世界の知恵者、ギリシアの哲学者も、知らなかったことでした。福音書の用語はギリシア語です。

     ここに述べられている、神の子イエスの姿は、その通りギリシアの知者が、言う意味からすれば、そんなに深い同情を抱いたら、神が神でなくなってしまうほどでした。その通り、神が神であることを止めるくらいに、「深い憐れみ」に生きられたのです。そこに、主イエスにおいて、現れた神のみわざの秘密があります。

     第10章において主イエスは、12弟子を呼び寄せて、力をお与えになり、伝道者として派遣されました。それに先立つ、この37節以下のところにおいては、こう言われました。「そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」。

     「祈れ」と言われたのです。日本の教会が、今日、伝道の力を失っているのは、本当は、この主イエスが「収穫は多い」と言われた時の、この収穫の豊かさを見ることができなくなっているところからくると思うのです。

     注解書を読んでみると、ひとつ気づかされることがあります。この「収穫」、「刈り入れ」と言う言葉は、もとは「神の審き」を意味したのです。神が人々を審くのです。愚かさを、刈り取って、滅びの中に叩きこんでしまう、そういう刈り入れを、主イエスは、ここで望んでおられるのでしょうか。

     もちろん、そんなふうに読むことはできません。主イエスは、ファリサイ派の人々ですら、滅びることを願っておられるような方ではなかったと信じます。だからこそ、十字架につけられた時に、十字架に自分をつけた人びとのために、祈ることがおできになったのです。

     「福音」、福音というのは喜びです。喜びの知らせです。私たちの愚かさが、刈り取られて、滅びの中に、叩きこまれるかもしれません。けれども、それは私たちを滅ぼすためではないのです。私たちを生かすためです。だからここで、私たちの愚かさを根絶しながら、私たちを、その愚かさの中から解放してくださる、神の大いなるわざが始まるのです。

     そのために人が要る。そのために働く人が要る。神さまに、祈ろうではないか。私が祈るのは、この愚かな人びとが、滅びることではない。あなたがたが、愚かさの中にうずくまったままで、滅びてしまうことではない。私の憐れみを少しでも知ってほしい。私のこの痛みを、分かち合う者になって欲しい。主イエスはそう願いながら、私たちを呼び求めておられるのではないだろうか。刈り入れの時は近づいています。日本全国にある、私たちの仲間の教会と共に、私たちの教会もまた、伝道の幻に生きたいと願っています。主イエスの願いを、分かち合う喜びを知って生きたいのです。