カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 言葉を与える神

    2017年8月20日
    詩51:15-19、マタイ10:16-23
    関 伸子 牧師

     今朝与えられている、マタイによる福音書第10章16節から23節に述べられている、主の教えのすべてを、解き明かすことはできません。しかし、特にここで、忘れてはならない言葉は、18節の「わたしのために」という言葉であり、もう一つは、22節の「わたしの名のために」という言葉です。キリストのために、なぜ生きるのでしょうか。キリストのために、何をするのでしょうか。18節の終わりの言葉で言えば「彼らは異邦人に証しをすることになる」のです。キリストの真理を、語らずにおれないということです。そこで一つ大事なことは、16節にある「鳩のように素直になりなさい」という言葉です。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という教えが、重なって出てくると、ある人びとは、この言葉は矛盾するところがあると言います。鳩のような素直さは、蛇のような賢さと、ひとつになり得るのかと言うのです。主イエスが語られるこの〈素直さ〉は、むしろ「純粋に生きる」ことです。裏表がないということです。混じりけがないということです。別の、主の好んで使われた言葉で言えば「幼な子のような」純粋な思いをと言ってもよいのです。羊の姿と幼な子の姿とは、ここで重なります。

     先程、詩編第51編を読みました。17節にこういう言葉があります。「主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います」。神さま、わたしのくちびるを開いてください。そうでなければ、神のみ言葉を語ることなんかできません。そういう思いで説教の直前に、祈りをする牧師があります。ここでも、主の励ましの言葉をそのように受け止めるのです。

     これは、詩編150編の中で最も代表的な罪の悔い改めの祈りの言葉です。ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バトシェバを奪い取って、その罪の恐ろしさに気づいて懺悔をした言葉だと言われるのです。15節にはこう書いてあります。「わたしはあなたの道を教えます/ あなたに背いている者に/ 罪人が御もとに立ち帰るように」。主に遣わされた弟子たちが、長官たち、王たちの前に立たされて、神の霊に導かれて、何を語ったのでしょうか。この詩編の言葉以外の何だったのでしょう。

     パウロが、テモテへの手紙一、第1章15節で、語っていた言葉以外の何であったでしょうか。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐みを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。

     おおかみの中に遣わされている羊は、小羊である主イエスの血によって、洗われて立っている羊です。おおかみとして生きざるを得ないと思い込んでいる人も羊になるのです。羊にならなければ、世界は平和にならないのです。

     神は、私たちを殺そうとはなさらなかった。私たちを生かし、あなたを生かすために、羊の道をお選びになったのではないか。私もまた、そのように生きている。私を生かしているその神の恵みにだけ生きたいと願っている。この私の言葉を聞いてください。神よ、私にそう語らせてください。これが、私たちの伝道の言葉です。ダビデは、その生涯の中で、一番深い罪を思い知らされた時に、かえってそこで、神よ、今こそ私は、あなたの真理をかたることができるのですと言ったのです。マタイによる福音書が語っている、伝道に生きる弟子たちの姿も、このダビデと重なるところ以外にどこに描き得るのかと、思うのです。

     そして、さらに興味のあることに、その後にすぐ、「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言われたということです。これは、聖書の解釈上は、いろいろと問題のある言葉です。この福音書が書かれた頃、〈人の子〉つまり主イエスはもうすぐに来る、イスラエルの町々、こんなに僅かな、イスラエルの町々を弟子たちが回り終わらないほどの、早いうちに主イエスは来られる、という信仰があったと言われます。それは、今私たちからは、失われているというのです。しかし、他方、このマタイによる福音書の、この言葉が書き記されていた頃、「再臨が近い」と人びとが、信じていた時代は、もうすでに終わりを告げ始めていたとも言えます。ある神学者は、こういうふうに言います。「ひとつわれわれの錯覚がある。弟子たちがイスラエルの町々を回り終わるということは、あっと言う間に、終わると考えるかもしれないが、それは間違っている。二千年たっても、まだ教会はイスラエルの町々を回り終わっていない。まだ、ユダヤの人びとはキリスト者になっていない」。確かに、私たちも小金井の町全部を救いたいと願います。しかし、ここに集まっているのは、ほんの一部でしかないのです。私たちは、ただ主の命令に従い、精一杯、この町の中で、伝道に生き続けるだけのことです。

     主イエスは、一方で、そのように私たちに、ゆるやかな思いをお与えになり、小金井で伝道しろとおっしゃっていてくださるのです。自分の家族の中で、家族にからかわれても、何を言われても、自分を生かす主イエスを証しし続け、そこで耐えていく。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そのように、私たちに耐えることを教えてくださったのです。私たちの教会の歩みを振り返って、これまでの伝道者たち、信仰者たちがよく耐えて、この町に、栄光を表し続けてくれた苦労に、心から感謝したいと思います。そして、その後に続いて私たちも、この現状に満足することなく、なお、どんなに多くの救われるべきおおかみたちが、ここに生きているかということに、目を注ぎたいと思うのです。そして、本当の羊として、主の羊として、この世に遣わしてください、この町の中に、私の家庭の中に遣わせてください、という祈りを新たにしたいと願います。