カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 悪魔と戦う知恵

    2017年9月3日
    ミカ7:1-10、マタイ13:24-43
    関 伸子 牧師

     今日、私たちに与えられている、この譬え、つまり「毒麦の譬え」は、他の福音書に記されていません。中間の31節以下にある、「天国は、からし種のようなもの」というのは、小さなものが一挙に膨らんでいく姿に似た、神の支配のみごとな発展を示します。小さな種が、すくすくと伸びて枝をはるように、伝道は、すばらしく進展するのです。しかし、それと同時に、このマタイの教会の人びとが知っていた、もう一つの体験がありました。それは、伝道もうまくいく。けれども、その伝道のわざにいつも異物が混じっているのです。

     ある教会に、箱舟の会というのがあります。中学生も高校生も大学生も、あるいは、もう大学を卒業した者もいるという意味で、あのノアの箱舟の中に、人間も動物も、何もかも乗ったようにということから、この名称が生まれたようです。昔の人々は、教会をよく舟に譬えました。箱舟は、神を信じる人びとが滅ぼされる大洪水の中で、神を信じ、正しい人であったノアと、その家族たちが、入り込むことができた安全な舟でした。しかし、問題は、教会が自分たちを舟に譬えた時に、この舟、この箱舟の中には、神を信じている、純粋な信仰に生きる正しい者たちがいるのであって、外には、そういう人びとはいないとすることです。この主の譬えで言うと「毒麦」は、箱舟の外に生えているのであって、箱舟の中に毒麦が生えてくるようであったならば、これは教会の名に値しないと考えるのです。そこで思い起こされるのは、ノアが箱舟に迎え入れたその中に、信仰も行いも正しい者ばかり入れたつもりだったけれども、肝心の自分の息子のハムという男に裏切られてしまったことでした。創世記によれば、洪水の後で、ノアが一番先に呪わなければならなかったのは、この自分の息子のハムでした。
     箱舟の中にも罪は宿るのです。これは、教会の昔からの問いでしたし、今日も、私たちは免れることのできない問題です。

     前の譬えの部分で登場してきて、あとの主の説明の中で姿を消すのは「僕たち」です。こ「天国は次のようにたとえられている。ある人が良い種を畑に蒔いた」と主の譬えは、始まるのです。僕たちは、おそらく、一所懸命、この主人の種まきの手伝いをしました。しかし、眠っている間に敵がやってきます。この敵は悪魔だと主イエスは言われます。眠っている間に毒麦を蒔くのです。

     この悪魔のしたことは、似たような種を蒔くということです。よい種かと思っているところに、毒麦が生えるのです。27節の僕たちのこの言葉は、驚きに満ちています。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」。これは強い表現です。
     主人ははっきり言います。「それは敵のしわざだ」と。主人は「待つように」と言います。必ず刈り入れの時が来る。その時には、自分が借り入れをする人びとに、毒麦と麦の区別を教え、毒麦を集めて焼くことを教える。それまで待つように。

     いったい、主イエスはこういう譬え話によって、何を私たちに語ろうとしておられるのでしょうか。 第一に、主イエスが、私たちにはっきり教えておられるのは、私たち自身が、抱きがちな信仰の理想主義ともいうべきものに対して、教会の現実、この世の現実を、醒めた目で見ることです。しかし、どうしたら真実に耐えることができるのか。毒麦が、毒麦であることをきちんとわきまえながら、しかし「神が必ず勝利なさる」ことを、望みをもって知っているからなのです。

     第二に、こういう私たちの理想主義、夢というのは、私たちの信仰の熱心とひとつに結びついています。ある人は、「私たちは、信仰に熱心であればある程、完全主義の過ちを犯す」と言いました。しかし、主イエスは言われるのです。毒麦をそのままにしておきなさい。なぜ、あなたがたはそこで、毒麦を抜くことに夢中になるのか。それは、わたしの仕事ではないか。

     そこで、第三に心に留めるべきこと、それは、この譬えを超えていかなければならないところがあるのです。29節に「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」とおっしゃっているのです。私たちはこの毒麦の譬えを読んでいると、毒麦とは、あの人、この人のこと、しかし、自分ではない、毒麦らしき人物をいくらでも数えることができるのです。しかし、自分がかつて毒麦であったこと、悪魔の虜であったことを忘れるのです。そして、今毒麦だと決めつけている人も、神の愛の中にすでに捕らえられているかもしれないことを、私たちは忘れるのです。

     主イエスは、自分を十字架につけた人びとのためにさえ、「彼らを赦してください」と神に祈ったのです。だから、こう言えるのです。この主イエスが語られた譬えを、主イエスご自身が超え出てしまう。毒麦が麦に替えられる日がくる。誰も引き抜かれない日がくるのです。誰もが、悪魔が蒔いた種から逃れて、キリストが蒔いた種の、み言葉によって新しくされることを願うことができるし、それを信じることができる世界があるのです。悪魔と神とが競い合って、最後まで、競い合ったままというのではないのです。神が勝つのです。悪魔から人びとを開放することによってです。そういう恵みの真理に、私たちは、到達したいと願うのです。

     パウロは、キリストの福音の真理のために戦い抜きました。しかし、その福音の真理は、自分が戦っている相手よりも、もっと深く悪魔の虜であった、自分を解き放ってくださった恵みの真理です。私たちは、そこに立つのです。教会においても、家庭においても、職場においても、苛立たない、あせらないのです。望みを抱いて、ただ神のみわざを信頼しながら生きるのです。そこに、諦めではなく、戦いが生まれるのです。そこに、私たちの、本当の伝道の戦いが生まれるのです。奉仕の生活が、生まれるのです。お祈りをいたします。