カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 神の支配を見る知恵

    2017年9月10日
    ヨブ記28:20-28、マタイ13:31-52
    関 伸子 牧師

     主イエスは、いつも旅をしておられました。その伝道の期間は、短いものでしたけれども、ほとんど集中的に旅をなさったのです。しかし、一人ではなかったのです。弟子たちと共に、です。「弟子」という言葉は「学ぶ者」という意味の言葉です。
     52節には「学者」という言葉が出てきます。元の言葉で言えば「これ、この事を学んで知恵を得ている者」、ぐらいの意味です。天国のことを学んだ学者、天国についての専門家です。
     この天国の学科を学び、そこで終了証書を得た者は、どういうことになるか。「新しいものと古いものを取り出す」ことができる。

     ミシェル・クオストという、フランスのカトリックの司祭がいました。著書に『神に聞くすべを知っているなら』という、日本基督教団が出した祈りの本があります。この祈祷集は世界的に知られるようになり、36か国語にすでに訳されているそうです。プロテスタントの人もカトリックの人も、みんな喜んで読む、祈りの書物のベストセラーを作った人です。

     フランスのある町で、平凡な司祭として生活をしていた。自分のところにさまざまな人がやって来る。大学生もあれば、労働者もある。商人もいれば、家庭の主婦もいる。そういう人々の、毎日の生活の中からの訴えを聞く。それで、誰かが話をしてくれると、それを聞きながら、そこで、その人のために祈りを作る。そういう経験を話しながら、こう言われるのです。「私がしたことは、生活の中で祈るということです。それを一緒にやろうとしただけです。なぜか。神がそこにおられるからです。神は天におられるのです。しかし、それだけではなくて、この地上にも生きておられるからなのです。そのことを、分かってもらいたかったのです。

     私は、今朝与えられている聖書の言葉を、心に留めていましたので、クオスト先生の詩を読みながら、「ああ、ここにも天国を学んだ人がいる」と思いました。
     神さまの支配は、あそこにも、ここにも見えてくるのです。またそれを信じて、見たいと願うのです。そこに祈りが生まれ、私たちの信仰生活が生まれるのです。
     ヨブ記、第28章20節は、こう問い始めます。「では、知恵はどこからくるのか/ 分別はどこにあるのか」。死は命の裏返しです。滅びは神の栄えの裏返しです。反対の極にあるものです。だから福音書の中にも、人びとがイエスの正体をわきまえなかった時に、悪霊たちは、イエスをすでに〈神の子〉と認めたと書いてあります。滅びというのは、普通の人間よりも、ずっと敏感に神の真理、神の知恵を恐れるものでしょう。その「滅びも死も言う、『それについては耳にしたことはある』」。真理について、はっきりした言葉を聞かなければならないのです。

     そこで、28節に「主を畏れ敬うこと、それが知恵」という言葉が、確信をもって語られるのです。真実の知恵、悟りとは、神を畏れることです。神が支配者であることを知っているということです。この神の支配というのが、マタイ福音書の言葉で言えば〈天国〉です。主イエスは、この天国について、弟子たちに教えるために、なおここで、いくつもの天国についての譬えをお語りになります。

     34節から43節までのところに「天国は一粒のからし種に似ている。天の国はパン種に似ている」という譬えが語られています。「からし種」については、これは〈教会の成長〉を示すと理解したこともあります。私たちがよく歌う歌にも「むかし主イエスのまきたまいし」という有名な賛美歌があります。神の支配は、私たちにとって、酸素のように不可欠なものです。神は生きて働く。そして、思いもかけない仕方で、大きな実を実らせてくださるのです。

     第二に、畑に隠してある真珠の話が出てきます。真珠を捜している商人は、真珠の値打ちがよく分かっているのです。そして、値打ちある一個を見つけたら、すべての物を売り払ってでも、それを手に入れるのです。この宝と真珠の話を学ぶ時に大切なことは、ここでは、これを弟子たちにだけ語られたということです。そこで、主イエスがはっきり言われたことは、支配は隠されたものだということです。

     そして、もう一つ最後の譬えをつけ加えられます。「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める」。この網の中には、良い魚も悪い魚も入れられます。最後になって、悪い魚がそこから取り出され、捨てられるのです。神の支配、神の勝利とは、悪に対する勝利である。悪は、始末されなければならないのです。この問いを私たちは、いつまでも心の奥底に秘めているのです。

     このような主の言葉を読むと、改めてつくづく思うのは、神さまは、私たちよりも、もっともっと真剣に、誠実に、悪を滅ぼそうとしておられるということです。しかし、悪が滅びるというのは、いったいどういうことでしょうか。詩編第73編の詩人もそうです。自分もよろめきかけたのです。あの悪の仲間に自分もなりかけたのです。どうして、踏みとどまることができたのか。神のみ前にあって、神が支えてくださったからです。主イエスが、人びとから踏みにじられるようにしながら、しかし、宝であり続けてくださる、真珠であり続けてくださる意味も、そこにあるのです。そのことをよくわきまえると、本当は自分こそ選別される悪人にふさわしい者であったにもかかわらず、その悪人の中に入っていないことに、喜びを見出すことができるのです。そして、世のいかなる人も、私と同じように、その悪の滅びを招くことがないように、神の恵みを祈らざるを得なくなるのです。傲慢になる道は塞がれるのです。「私のような者でも救われているのですから、どうぞ、あなたも、同じ信仰に生きてください」と言って、私たちは歩かざるを得なくなるのです。私たちもまた、天国の学校を開かざるを得なくなるのです。そこに、伝道のわざが生まれ、私たちの奉仕の道が開かれるのです。お祈りをいたします。