カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストは今ここにおられる

    2017年9月17日
    詩94:1-19、マタイ18:15-20
    関 伸子 牧師

     私たちが、信仰を求め、あるいは信仰に生きようとする時、おそらく誰もが心の中に一度は抱く問いに、イエス・キリストが本当に生きておられるかという問いがあります。しかもそれは、昔、二千年前に、ユダヤの地、パレスチナの地に、イエスという一人の歴史的な人物として生きておられたかどうかということにとどまらないのです。大切なことは、主イエスが、今私たちと共におられるということです。

     祈りをしていて、こんな祈りには意味があるのだろうかと、ふと虚しい思いに、捕らえられたことがある方は、多いのではないかと思います。礼拝に、汗をかきかきやって来ながら、いったいこれは何のためだろうと思って、立ち止まってしまうような体験をした方もあるのではないかと思うのです。そういう虚しい思いを、何とかして、何かで埋め合わせをしてしまおうとする誘惑に、私たちは、いつもさらされるものです。その誘惑に勝つ道は何であるのか。それはどのようにしてか。それは、主イエスの約束を信じるということです。

     そして、今朝、私たちに与えられている、この第18章には、もう一つの重要な約束が与えられています。20節です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。二人でよい。三人でよいのです。「わたしの名によって集まる時には、わたしもその中にいる」と主は約束してくださるのです。この「その中にいる」と訳されている言葉は、原文のギリシア語では「真ん中にいる」という意味の言葉です。〈真ん中〉というのは、誰からも等距離、誰にも一番近く、このど真ん中に、主イエスはいてくださることです。

     イエスが、生きておられるかどうか、信じにくいところがあると言いました。その一つの理由は、イエスを、目の当たりに見ることができないからです。
     私たちの愛もまた、決して確かなものではありません。教会の愛の交わりなどというのも、ほんのちょっとした傷で、崩れてしまいうものです。教会は、争いを繰り返し、分裂を繰り返し、仲たがいを繰り返しています。それがどうして繕われていくのか。どうしてここでなお、聖徒の交わりが、ここにあるなどと言うことができるのか。イエスが、私たちの愛の結び目の真ん中にいてくださるからです。

     主が、語ってくださった「私の名によって」という言葉、これは、さまざまに言い換えてみることができると思います。この20節に先立つ19節では、こう言われています。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つに求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。ここに「心を一つに求めるなら」という言葉があります。この「心を一つに」という言葉は、ギリシア語では〈シュンフォネオ〉というのです。このギリシア語から生まれた、私たちがいつも聞いている音楽用語があります。〈シンフォニー〉です。「響きを共にする」という意味の言葉なのです。シンフォニーのごとく響きを重ねて、祈りをするのです。そうとすれば、私たちの祈り、私たちの礼拝は「東小金井交響楽」を演奏していることになるのです。

     〈交響楽〉という言葉を読むと、私がふと思い起こすのは、ハリー・ディクソンという、ボストン交響楽団のヴァイオリニストである人が書いた『ドルチェで行きましょう』という楽しい書物です。最初にこういう話が出てくるのです。音楽家にはくせがある。交響楽団は、ヴァイオリニストから始まっていろいろな楽器をいじる人がある。そして楽器ごとにそれを演奏する人に個性がある。たとえばトロンボーン。トロンボーン吹きは、「まるで牧師のようだ」というのです。どういう牧師かというと、「普通、物静かで鈍く、とても道徳的で善人だ、文句はちっとも言わないで、おとなしく無駄なく仕事をよくする、人に歯向かうことを知らない男だ」と書いてあります。そうかと思うと、そのすぐ後で、このトロンボーン吹きと全く反対なのは、ホルン吹きであって、たいてい反逆者であり、労働組合の指導者なんかにすぐなる男だ、と言います。しかし、このディクソンが言いたいことは、みんな、そんなにくせがあり、まるで正反対の人びとが寄り集まりながら、それでも交響楽というものは生まれてくる、ひとつのハーモニーが生まれて来る、ということなのです。心を合わせるとはそういうことなのです。

     この東小金井教会に集まる者がみんなひとつの色に染まる必要はないのです。みなそれぞれに、神から与えられた賜物に生きているのです。それぞれの音色を持っているのです。しかし、それが一斉になり出すと、美しい調和した響きが生まれるのです。この調和はどうやってもたらされるのだろうか。生きるところが違い、語る言葉は違い、歌う響きは違っても、ひとつのことを語ることができれば、歌うことができればよいのです。

     19節に「はっきり言っておく」と書かれています。原文には「また」という言葉があります。「また」というのは、「繰り返して」、ということです。そして「よく」というのは「アーメン」と言う言葉です。何度でも言っておく。祈りは聞かれる。そのために、心を合わせなさい。どんなに違った声でも、一つにしなさい。そこに教会がある。そこに、キリスト者の夢が生まれる。そこに、キリスト者の友情が生まれる。そのような祈りの輪を作れ。そこに兄弟姉妹が得られる。そこに、教会が造られる。これが、主のみこころです。

     このただ中におられる主イエスが、主の祈りを教えてくださいました。祈りの言葉を失ったならば、主の祈りを唱えたらよいのです。その時、私たちは、私たちの真ん中にたって、私たちの先に立って、この祈りを唱え続けていてくださる、主イエスの姿を見出すに違いないのです。お祈りをいたします。