カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 死についての知恵

    2017年9月24日
    ヨブ記28:23-28、テサロニケ一4:13-18
    関 伸子 牧師

     今日は、先に天に召された方々を覚えて礼拝をささげています。召天者名簿が配られました。その名簿にある方たちは、この礼拝堂で共に礼拝をささげられた、私たちが親しくしていた方、愛する家族でした。死は突然やって来て、愛する者を私たちから奪っていきます。愛する者の死は辛いもので、文字通り、自分の体の一部を失うようなものです。寂しく、辛い、大きな喪失感を覚えます。しかし、死は必ず私たちにも訪れるのです。主イエスは十字架の死を予感された時、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言われました。天の住まいのことです。ところが、先ほどお読みしました聖書では、少し違っています。使徒パウロが書いた、テサロニケの信徒への手紙一第4章13節以降によれば、イエス・キリストの再臨の時に、キリストが天から下って来ること、そしてキリスト者は死んだ者も生きている者も永遠にキリストと共に生きるということです。これは驚くべきことです。このみ言葉を通して死についての知恵を学びたいと思います。

     テサロニケの人びとにとってもひとつの信仰の問題は死でした。「眠りについた人たち」、つまり先に死んだ人びとについての理解に混乱があったようです。そこでパウロは、「知っておいてほしい」と言うのです。たとえば16節以下に、こう書いています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(16-17節)。
    ここでのパウロの問いは、テサロニケの人びとの中にある具体的な悲しみを私たちが慰めることができるかどうかということなのです。

     愛する者の肉体が目の前から消えることは、本当に耐え難いさびしさです。愛していればいるほど、その人が骨と化した時に知った悲しみは何年経ってもかえって深まるようなものです。その悲しみを捨てて喜びとしなさいということではありません。急所は悲しみの中でなお知恵を正しく保つことなのです。
    先ほど、ヨブ記第28章の言葉を読みました。「主を畏れ敬うこと、それが知恵」(28節)と言います。人間にはどこまでいってもわからないことがある。それを知るのが神の知恵であり、それを悟った人間は神を畏れ敬う者となる、というのです。

     すぐれた聖書学者であるオスカー・クルマンが『霊魂の不滅か死者の復活か』という書物を書いています。聖書の中には霊魂の不滅は教えられていないと主張している書物です。キリスト者にとっての希望は、肉体は滅びても魂はいつまでも生き残るというところにはないのです。そこで彼は、どうも読者たちはこの書物を終わりまで読まずに途中でやめてしまったのではないかと疑われると言っています。どこで止めたかというと、彼がソクラテスの死とキリストの死とを比較して論じたところだろうと言います。ソクラテスという哲学者は、ゆったりと落ち着いて死んだのです。彼にとって死とは魂が肉体の牢獄のきずなから解き放たれ、天の世界に帰ることでした。しかしそれに対して、主イエスは、真実に死を恐れたのです。クルマンは、ゲッセマネにおいてこの死を決意なさった夜、主イエスは独りでいることもできず、弟子たちといっしょに来てくれと言われたのだと書きます。そして十字架の上においても、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、希望を持たない者のような深い絶望の叫びをあげられたのです。クルマンは、福音書記者が、死に直面した主イエスの苦しみを、これほど明らかに書き残してくれたことを感謝しなければならないという意味の言葉さえ書いています。ところが読者の中には、このことをよく理解できなかった人があると言うのです。
    パウロは14節にこう言っています。「イエスが死んで復活されたこと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導きだしてくださいます」。これは、こういうふうに訳し換えることができます。「イエスが死んで復活されたことを、もしわたしたちが信じているのならば」。私たちは信仰を与えられている。それは、主イエスという方が死んで甦られたという事実を私たちが受け入れるということです。

     詩編の第139編8節は、こう歌いました。「天に昇ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」。旧約の時代は、死後の世界は、神なき暗い世界であると考えられていました。しかしこの信仰の詩人は言うのです。もうあそこには神はおられない、そういうところへ行くのだと思って死に赴く時、おそらくは深い絶望の中で死者の世界に行った時、そこには死んだ人間だけではない、思いがけず神ご自身がそこにおられる、と叫ぶのです。イエスと共に死ぬ者は、イエスと共に永遠に導き入れられます。ですからパウロは言いました。「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。私たちはいつでも、死んでも生きても、主と共にあります。主にからみついています。そこに私たちの慰めがあります。

     このような私たちは、いつもひとりではありません。皆が、「共に」あるのです。「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」とパウロは18節で書くのです。あなたがたはもう復活の命を知っているのです。それを生きているのです。主の復活を共に知っているのです。主にあって眠ることのさいわいを知っているのです。だからこそ互いに慰め合うのです。どんなことがあっても希望が消えることはありません。この希望をもって慰めあうところに教会があるのです。この希望と慰めの中で、共に生き、また死にたいと願います。祈りましょう。