カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 新しい戒め

    2017年10月1日
    詩編119:33-40、マタイ19:16-30
    関 伸子 牧師

     一人の若い男が、主イエスの地上のご生涯の、終わりに近い頃、主にお目にかかることができました。永遠のいのちを得たいという願いを持っていたのです。しかし、その主との対話の結末はこうでした。22節、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。この青年は主イエスの弟子になりそこなった人でした。しかも、この青年は、主の弟子になり損なった時に、「ちぇ、それならいいや、他の教師のところに行くから」と、平気で、主のみもとを立ち去ったのではないのです。悲しみながら立ち去ったのです。

     21節によれば、主イエスは、こう言われました。「もし完全になりたいのなら」。永遠のいのちに見合う、全き生活を作りたいと思うならば、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。そして、福音書は、はっきりと、この青年はたくさんの資産を持っていたから「悲しみながら立ち去る」ことになったのだと言います。

     私は、他人の話をしているのではないのです。この愚かな、自分の資産に手をかけたまま、その手をどうしても、もぎ離すことができない人の姿は、私たちの姿です。こういう物語を読みながら、なお平気で、よくここに集まれると言われても仕方がないような、未練がましい生活を私たちはするのです。

     しかも、さらに読み進んでいくと、おかしなことに、このような挫折を体験する者の傍らにあって、私たちとも、ちょっと違って、私たちはあんな男とは違うと、そういうことができた人びとがありました。27節です。「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』」。主よ、私たちは違います。私たちは、すべての富を捨てて、あなたに従ったのです。あなたは、すべての物を捨てたその時には、と金持ちの青年に永遠のいのちを約束なさいました。私たちはそれをしたのです。ついては、私たちには、何をくださるのですか。そう問うのです。

     まず、26節の「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」。すべてのことは、神において可能です。しかし、人間においては不可能なのです。
     しかも、この主の言葉は、弟子たちを「見つめて」語られた言葉だとされています。もちろん、「見つめる」というのは、ただ、ちらっと、見ることではありません。じっと見つめる。心の中まで見通すように見つめるのです。

     そこで、主が、ひとつの譬喩を用いられました。「らくだが針の穴を通る」というこの譬えは、よく知られているものです。この「らくだ」と訳されている言葉は、ほんの少し綴りを変えると「引き網」、船を引っ張ったり、錨を付けたりするあの「引き網」、そうした太い網を意味する言葉になるのです。そうすると、もう少し話が合うようになります。縫い針に、そうした太い網を通そうと、がんばるようなものだ、と言えば、譬えとしても、もう少し、分かりやすくなるように思われるのです。

     ある説教者が、この主の言葉をよく理解するためには、使徒パウロのことを、考えるとよいと言っています。「金持ちの青年」の対極をなす存在、正反対の姿、それを示すのは、誰なのでしょうか。ペトロはここで胸を張って、あの男と全く正反対の姿は私たちですと言っているのです。しかし、私たちは、それは、ペトロたちではなかったことを知っています。少なくとも、ここではそうでなかったのです。

     フィリピの信徒への手紙第3章4節以下の記述は、使徒パウロの簡潔な自伝的叙述、と言うことができます。パウロは、もちろんここで自分の地上の資産、財産を誇っていません。しかし、ここで述べていることは肉の頼みであり、地上の自分の富であり、自分の利益として数えていたものです。そして、その地上の富が一切価値を失ったと言う。パウロがここで語る地上の富、それは、ただ単なる物質的な富ではありません。信仰の富と言うべきものです。「金持ちの青年」と同じです。パウロもかつては、「金持ちの青年」であったのです。一所懸命おきてを守り、神に対して富もうと思ったのです。もしパウロが、金持ちの青年の言葉を傍らで聞いたならば、きっと言ったでしょう。ああ、君は、僕と全く同じだ。いや、君は、まだ私には及ばない。私の方がもっとおきてについては熱心であった。パウロはここで、わたしにとって、これまで益であったこれらのもの、わたしにとって富であったこれらのものを、キリストのゆえに、損と思うようになったと明言したのです。ここに「心の貧しい人々は幸いである」と告げられた主の祝福が現実となるのです。

     「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。この29節は、主の約束です。「その報告をも受け」と言われました。同じ主イエスの言葉を伝えているマルコによる福音書、第10章30節は、「迫害も受ける」と書きました。

     「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。この30節の言葉は、今までの主イエスの言葉と、これに続く第20章の1節から語られる、ぶどう園で働く労働者の報酬の譬えとを結ぶ鎖のようなものです。この天国のぶどう園の譬えは、働いた時間はそれぞれずいぶん違うのに、同じ報酬を受けた人たちの話です。最初に働きだした者も、最後に働き始めた者も、同じ恵みを受けているのです。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」後の者とは誰でしょう。金持ちの青年のことも忘れることはできません。わたしは、この青年も夕刻になって、それでも、ようやく間に合って天国の門に辿り着き、弟子たちと同じ恵みを受けることができたのではないか、と思っています。少なくとも、私たちが、その恵みを得ているのです。だから、金持ちの青年についても、望みを持つことができるのではないか。神において、すべてのことが可能になったのです。