カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 気前のよい神

    2017年10月8日
    イザヤ書56:1-8、マタイ20:1-16
    関 伸子 牧師

     今朝、私たちが読んだ、この第20章の1節から16節までの、主イエスの譬えは、この第19章30節と、第20章の16節という同じ言葉に包まれ、囲まれています。

     主イエスがなさった譬え話では、1日中、一所懸命働いた人が妬んでいるのです。しかも、その妬み心を試すかのように、この主人は、目の前で、たった一時間しか働かない者まで1デナリオン貰っているものですから、これは当然、妬み心が起こってくる。これは、私たちにもよくあることです。この15節の「ねたむのか」と訳されている言葉、これは、原文では「目が悪い」と言う言葉です。見るべきものがよく見えないのです。

     もう一つ大事なことは、そのように、目が悪くなってしまった者に対して、この主人が13節で「友よ、あなたに不当なことはしていない」と言っていることです。「友よ」というのは、期待を裏切る者に対する言葉だということです。報いを求める思いと、妬みとが一つになり、その妬みが、神の愛を裏切るのです。

     しかし、ここでの問題は、この男からすれば、後から来た者に1デナリオンやって、それで自分には、色をつけて報酬を少し多くしてくれれば、そこで初めて平等になると考える。しかし、主人からすれば平等に1デナリオンを与える方が平等である。それだけの意見の食い違いだということにとどまらないのです。

     「気前のよさ」。ギリシア語の原文は、ただ「善い」という言葉です。それを少し意訳して「気前がよい」としたのです。この「気前」というのは、本来、ただ人間の性質を表す言葉だそうです。良いも悪いもないのです。しかし、随分早い時代から、「気前が良い」という、この「良い」という言葉がなくても、「気前」という言葉だけで、「よい気前」、つまり善い性質という意味を持たせるようになりました。しかも気前が良いと言った時に、何を意味するかと言えば、人に何でも与えることができる、そういう人間が、気前のよい、つまり善い性質の人であったのです。それで「気前が良い」と言うと、他者に自由に恩恵を与える者という意味になったのです。しかし、私たちは、誰かが、気前が良いと聞くと、どういうふうに考えるでしょうか。気前の良いという言葉を聞けば、その気前の良さを、まず自分のために利用し、その恩恵にあずかりたいと考えるのです。

     主イエスはそれに対して、この気前のよい神の姿を、もっと鋭く描きます。主イエスがここに語っておられる、この神の気前のよさは、誰かが、どれほど働いたかということを超えて、その人にとって最も大切なものを、その人の思いにまさって与える、気前の良さを意味するのです。そういう神の善意です。何にも束縛されず、全く自由に、「この人には何が必要か」ということだけを考えて、そのことだけを願って、慈しみを与え、憐れみをほどこす、神の全くの善意です。

     この譬えは、いったい誰のことを語っているのかということが、しばしば問題になります。さまざまな解釈があります。1日中働いたユダヤ人、後から来た者は、ユダヤ人ではない異邦人、1日中働いているのが、ユダヤ人の中のファリサイ人、律法学者、後から来た者は取税人、罪人、売春婦と言われる人びと。さらにはまた、1日中働いた者は、弟子たち、後から来た者は、教会に後からやって来た新来の者たち。そういうふうに、さまざまな解釈がなされたのです。どのように解釈してもよいと思うのです。とにかく大切なことは、この譬え話の中のどこにいるかです。自分がどこにいるかということです。重要なのは、これを神と自分との切実な物語、いや、自分に注がれている神の愛の物語として、読み解くということです。

     そこで、じつは、ここでとても大事なことがもうひとつあるのです。この物語のどこに自分がいるのか、そう問うて、夕暮れになっても、職を得ないまま立ちんぼうをしている仲間と考えることもあると思います。自分はどうしてよいのか分からなくなっています。もう、日も暮れかかっています。そこに、何の役にも立たないかもしれないけれども来て働きなさい。何の役にも立たないと自分でも絶望しているのか。そんなことはない。あなたは私のぶどう園でならば一人前に扱われる。自分について絶望し始めている者を、神はお招きになるのです。わたしのぶどう園では、誰でもその場所を得ることができる。何もできなければひとこと祈るだけでもよいではないか。そうしたら、あの使徒ペトロと同じ報いを、あなたに与えることができる。あなたも望みに生きることができる。永遠のいのちを望みに生きることができる。この譬え話を通じて、主イエスが、そう呼びかけてくださる言葉を聞くことができるかどうか、そこに、すべてがかかるのです。

     私たちは、誰もが、まずそのようにして招かれたのです。しかし、私たちはそれを忘れます。そのようにして招かれたのに、いつの間にか、自分は1日中、十分働いた人だと思いこんでしまい、その人と同じ考え方になってしまうのです。もう私は、5年も10年も信仰生活を送ってきた。いや、私は20年も信仰と奉仕の生活をしてきた。それなのに、いま教会に初めて来た人びとの方が、祝福を受けるのはなぜか。なぜ自分は10年、20年と、むしろ報われぬ思いの中に、生きなければならなかったのか。そう呟き始めるのです。

     イザヤ書第56章の1節から8節までの言葉は、私の愛唱する聖句の一つです。宦官として差別されてきた者も、異邦人として捨てられていると思われていた者も、「いつか私は捨てられる」などと思ってはならない。みんなわたしの民だ。みんなわたしのぶどう園に生きる。そう語り掛けてこう言うのです。「追い散らされたイスラエルを集める方/ 主なる神は言われる/ 既に集められた者に、更に加えて集めよう、と」(8節)。この神の恵みを、今一度、確かに受け入れながら、新しい季節を迎えたいと思います。お祈りいたします。