カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 思慮深いおとめたち

    2017年10月22日
    マラキ書3:1-12、マタイ25:1-13
    関 伸子牧師

     マタイによる福音書を読み続けてきました。今日から第25章に入ります。ここに述べられていることは、まず何よりも婚宴の喜びです。10人のおとめが、もちろん晴れ着を着て、その迎える準備をしている。それぞれが、ともし火を用意しなければならない。ともし火を調える時にも、晴れ着を着る時にも溢れていたに違いない、このおとめたちの笑いさざめきが、聞こえてくるような気がする場面です。

     この物語に基づいた賛美歌がたくさんあります。54年版賛美歌の174番、これは有名なドイツ語のこの物語に基づく歌です。ヨハン・セバスチャン・バッハがこの歌に基づいて、教会の礼拝で歌う合唱や独唱の混じったカンタータを作りました。そのカンタータ140番はたいへん有名なものです。この歌は婚宴においてしばしば演奏された、今でもそういうことがあると解説に書いてありました。主イエスが十字架につけられる直前、受難週の中でなさったひとつの物語です。それを結婚式で歌うというのです。しかも、ここに述べられているのは、私たちのする結婚式ではないのです。やがて来られるキリストを花婿として迎える〈教会の婚宴〉です。話しが違うではないかと言うこともできるのです。私は、しかし、その解説を読んだ時になるほどと思いました。地上的な喜びとしか、言いようのない婚宴の席において、「目覚めよ」という主の声がする。あの賢い5人のおとめのように、私たちは油を備えているだろうか。そう問いかける歌を歌うということは、むしろ、主イエスのみこころに一番沿ったことであるかもしれないとさえ思います。

     この10人のおとめの譬えの筋道はたいへん明瞭です。10人のおとめが、花婿を迎える務めを与えられていた。そこで主イエスは最初に、こういわれた。「その中の5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であった」。この言葉はギリシア語に即して、もっとはっきり言えば、「愚かなおとめと賢いおとめ」のふた組みがいたということです。この思慮の浅い者の愚かさはどこに現れたか。ともし火を用意していたけれども、そのともし火を絶やさないための油を用意していなかったことにあります。賢い者はその逆であったのです。「賢い」と訳されている言葉は、「目を開けている」、「開かれた目を持つ」という意味をも持っています。最後の13節に至って、「だから、目を覚ましていなさい」と主イエスが、最後の警告を発しておられることから言っても、そのことは明らかであろうと思います。

     ところで、この譬え話はとても分かり易いと言いましたけれども、しかし実はこどもが聴いていても、「おやっ」と思うところがひとつあります。それは、「目を覚ましていなさい」、賢いということは目を覚ますことだと言いながら、この賢い者たちは、5人の愚かなおとめたちが寝ている間、自分たちも一緒になって眠っていたということです。「みな居眠りをして、寝てしまった」のです。

     人間の弱さのために、居眠りをしてしまうような時にも、「起きなさい、キリストが来られる」、その言葉を聞いた時に、喜んで目を覚まし、主が求められる、ともし火を持って、立つことができるか、ということを問われるのです。

     この主イエスの譬えが、何よりも主の〈再臨〉について語っているということは、明らかなことです。ある人はこう考えました。ここで主イエスがおっしゃっているのは、教会に生きている、のんきな人びとに対する警告である。たとえば、自分はもう主イエス・キリストの名による洗礼を受けて、恵みを受けてしまっているから、教会の仲間に入ったのだから、もうこれで安心だと思っている。いわば第一次試験が通っても第二次試験がある。第二次試験とは何か。その人びとは言います。洗礼を受けた人間にふさわしい義しい立派な生活をしなければならない。

     しかし、私はそこで立ち止まるわけにはいかない。自分がその厳しい第二次試験に合格するかというと、その自信がないからです。

     そこでまた、もう少し別の解釈もなされるのです。ここに述べられている、ともし火、あるいはあかりをともす油とは、神の霊のことである。なぜかというと、しばしば聖霊は火に譬えられている。火のように聖霊が降る。「霊を消すな」とも言う。いつもともし火を用意しているということは、望みを失わないで生きていくことです。望みを失わないで眠り込むことだと理解することができます。

     洗礼を受けたら、もう少しましな人間になるかと思ったけれども、何も起こらないではないか。そう思って、私たちが嘆かなければならないことは、いくらでもあります。しかし主イエスは、そこで目を覚ますのだと言われるのです。あなたはともし火をともすことができる。あなたは油を持つことができる。それが、わたしがあなたに与えた〈恵み〉ではないか、と言われるのです。

     「世の終わり」について学ぶために、エミール・ブルンナーという、もう亡くなったスイスの神学者が書いた『永遠』という本を読みました。ブルンナー先生は、「主イエスがさばきについて語られる時、その物語はすべて憐れみの物語であることを忘れてはならない」と書いておられます。私はその通りだと思います。十字架について死なれた主イエスは、私たちが、ひとりも欠けることなく、主イエスを迎える火を、いつも待ち望んで生きることを求めておられる。だからこそ、私たちは愚かな罪を犯すわけにいかないのです。天地を造られた神、主イエスを私たちのところに送られた神が、私たちを死の寂しさの中に、放っておかれることはない。私たちをこの世にあって、いつも途方に暮れる絶望の中に捨てておられることはない。教会の貧しさ、愚かさに、やけを起こしてしまうような状況に、私たちを放っておかれることはない。目を覚ましていなさい。わたしは来る。その望みに生きなさい。その望みに生きる時、あなたがたは安んじて生き、安んじて寝て、安んじて死ぬことができるのではないか、と言われるのです。