カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 誰があなたを汚すのか

    2017年11月5日
    詩編32:1-11、マルコ7:14-23
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第7章の14節から23節までに記されている言葉の、ひとつの明確な中心となる言葉は、15節です。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。
     このみ言葉を主イエスは、わざわざ群衆を呼び寄せて語られました。群衆と別れて家に入った時に、弟子たちが、いったいさっきおっしゃったのはどういう意味ですかと尋ねた。ご自身の言葉を主イエスご自身が解説なさったのが、18節以下に記されているのです。『「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
     それにしても、どうしてここで食べ物が問題になったのでしょう。明らかなひとつのことは、1節以下の論争です。弟子たちの中の何人かが、手を洗わないで食事をした。汚れた手で掴んだ食べ物は皆汚れてしまう。当時の人びとが毎日の生活の中で、汚れたと思われる人びとに触れる、あるいは汚れた人と同じものに手を触れることによって、自分たちに汚れが移って来ることを恐れたのです。しかしもうひとつは、この1節から13節までに語られていることだけではなくて、実際に食べ物の中に、汚れたものと清いものとの区別をする習慣がユダヤの人びとにありました。旧約聖書の最初には、モーセのおきての書物と言われるものが並んでいます。そのひとつである、レビ記の第11章から続けて読んで行くと、最初に食べ物から始まって、汚れた病人、女性の汚れ、というようなことに至り、最後には家にかびが生えたらどうするかということまで語っているのを読むことになります。

     「汚れ」と「清さ」とを区別して、食べ物から何から、すべてのものにおいて、汚れに触れまいとする考え方は、昔のユダヤの人だけではありません。日本にもあります。何よりも、神社に行って「お祓い」をしてもらうことが大切なのです。
     主イエスがここで明らかにしておられるのは、「皆が汚れる」ということです。その〈汚れ〉はどこから来たかと問うておられるのです。食べ物のせいにするなとおっしゃっているのです。自分が交わっている他人のせいにするなと言われるのです。

     主イエスがここで問うておられるのは、〈人の汚れ〉です。人間そのものの汚れです。わたしの汚れです。皆さん一人ひとりの汚れです。あなたを汚している者は誰か。あなたの心があなたを汚しているではないか。そしてそのことを、主イエスは先ほど既に指摘した20節から22節で、具体的に問うておられる。
     ここで「ねたみ」と訳されている言葉は、元の言葉はふたつの単語からできている。「悪い目」という意味なのです。目が悪い、目つきが悪いということです。人間の目つきが悪くなる。それはどういう時か。他人の持っているものを見た時です。私たちが人について語る言葉にいつの間にか妬みの心が混じっていることを否定することはできない。ここで主イエスが問題にしているのは、心の目です。なぜその心の目が濁るのか。そういう悪い目つきになる心心から、遂に盗みに至り、殺意を抱いたり、とんでもない馬鹿げたことをするようになるのです。

     このような主イエスのみ言葉に照らして、私たち自身の吟味を始めなければならないでしょう。しかし、自分が汚れた人間だと決めつけられるのを、たいていのひとは、好みません。だから教会を訪ねて一番困るのは、罪人だと断定されるのを受け入れなければならないことです。どうしてもそこのところがよくわからない。それでは、あなたは聖い人間ですかと問われると、そんなことはない、わたしにも足りないところはあると認めるのです。しかし、足りないとは何か。どこが間違っているのか。私たちはそこから先へ進めないのです。み言葉に照らされないと自分自身の正体を見極めることができなくなるのです。

     先ほど詩編の第32編を読みました。これは詩編150編の中にある7つの悔い改めの詩編と呼ばれているものの中の代表的なものです。ここにも〈心の吟味〉が語られています。2節に、「主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」という言葉があります。自分自身が真実で、自分を欺くこともなく、しかも主のまなざしが自分の心を覗き込んでも、汚れを見出されない人は何とさいわいなことか、と言います。

     主イエスに心の汚れを問われる者は、外から入って来るものはみんな胃袋のほうへ行ってしまって、心の中に入らないから安全だなどと言って、のんきにうそぶいているわけにはいかない。私たちは汚れを告白しながら、この詩編第32編を、あるいはその他の詩編を、その他の聖書の言葉を読んでいくとき、導かれるところがあると思います。それは、その汚れを清める者もまた外からくるということです。そうでなければ救いはないということです。

     マルコによる福音書がこの後に、「シリア・フェニキアの女の信仰」について語ったこともまた、無意味なことではなかったと思います。シリア・フェニキア、異邦の女です。汚れの中に生きていた女です主イエスが、今自分は、神の民イスラエルの人びとのことで精一杯だ、そうお答えになった時、子どもたちに食べさせたパンが下に落ちて犬が食べる、そのようにわたしにその恵みを与えていただきたいのだと求めた。これも開かれた心です。そこに見えて来る光の明るさに、私たちは、ほとんど唖然とする思いがある。そこからのみ、私たちが真実に、汚れではなくて聖さに生きることができるようになる。

     私たちは皆聖い人になって生かされている。そのことを確信することから、私たちの歩みが始まる。礼拝に来た時に、私たちがまずするのは、そのような意味においては、神の言葉に既に捕らえられている自分自身に立ち帰り、その自分自身を受け入れることだ、そう言ってもいいと思います。それゆえに、ここにおいて行われる礼拝は、私たちの喜ばしい礼拝となるのです。お祈りをいたします。