カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 思い違いからの自由

    2017年11月12日
    出エジプト3:1-14、マルコ12:18-27
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第12章の18節以下の記事の最後の27節に、「あなたたちは大変な思い違いをしている」という主のみ言葉があります。この「思い違いをしている」という言葉を文語訳では、「汝ら大いに誤れり」という訳になっていました。主イエスもわざわざ、「大変な思い違い」、大きな思い違いをしているとおっしゃっているように、「ごめん、ごめん」で済むようなものではないのです。

     サドカイ派という呼称が18節に出てきます。かつて祭司ザドクという人がいました。その流れを汲む人たちのことだとするのです。政治的にも信仰的にも保守的になる。サドカイ派即ち保守派という解釈が成り立つのです。サドカイ派と並ぶファリサイ派も律法を重んじます。特にここでは政治的な法というよりもむしろ宗教的な法、信仰に関わる法を重んじる。それならばファリサイ派とサドカイ派とどこが違ったかというと、サドカイ派の人びとは一種の聖書主義者で、旧約聖書の最初の5冊を「モーセ5書」と呼びますけれども、それらの書物に書いてある律法だけを重んじるというのです。ファリサイ派の人たちはそれと違って、その律法を軸にして、次々に加えられたおきてについての解釈を律法として重んじました。

     ここに「復活」という主題が登場します。この復活についてもまた、実際にモーセ5書を読むと書いてありません。ですから、サドカイ派は、復活を信じませんでした。ところが、主イエスは24節にこう言われる、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」。サドカイ派の人びとは思い違いをしている。聖書の読み違いをしているから、み言葉について迷っている。サドカイ派の人たちが聞いていて、気に触った言葉です。読み違えているとはどういうことかと言えば、「神の力を知らない」ということです。

     まずひと組の夫婦があって、その夫が先に死んでしまい、しかも子どもがいない。その場合、残された財産を誰が引き継ぐか。その家は、それで断たれるのか。そこで困らないように、もし弟にまだ妻がいなかったら、その弟が兄に代わって、残されてしまった兄嫁の夫となるようにとした。サドカイ派は、例として、7人の兄弟を挙げました。7人というのは完全数ですから、いわばその義務を全部果たすということでしょう。結局は、子どもがひとりも生まれないで、やがてその妻も死んでしまって、それからのち、いつの日か、皆が甦ったとなるとどうなるか。地上に生きている間は、いつもひとりずつ夫になってくれたのだけれども、今は目の前に、かつて夫であった者が7人並んでいる。天国で、この女と誰が住むか。

     そこでサドカイ派の人が言うのです。復活を信じるというのはおかしい。ファリサイ派の人たちは、復活を信じていた。ここで問われている根本的な問題は「死」です。死をどう受け止めるかということです。サドカイ派のように、信仰というのは、生きている間のことだと考えるかということです。

     いったいそこで何が問題なのでしょうか。25節、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。この「天使のようになる」という翻訳は曖昧です。これまでの日本語の翻訳では「天にあるみ使いのようになる」と訳してありました。「天にある」ということが急所なのです。

     今日は出エジプト記第3章1節から14節まで読みましたけれども、この14節のところで、神はモーセに、もう一度ご自分の名前を語られた。「わたしはある」という者である。イスラエルの人びとにいったい誰から遣わされたのかと言われたらこう言いなさい。そう言われた後で、もう一度その後すぐに15節で、「イスラエルの人々にこういうがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」と改めて記すのです。出エジプト記の理解からすれば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのは、即ち「わたしはある」という名でもあるのです。先ほどの「天にある」という言葉についての説明をした学者の言葉で言えば、神の「いのちの手」をもって包み込んでいてくださっている。天にあるみ使いというのは、神のみ手に包まれた存在だということにあるのだと、その人が言うのです。

     サドカイ派の思い違いがどこにあるかということは、明らかになっていると思います。私たちが、神が死んだ者の神ではなく生きている者の神だという確信を、神から十分に与えられたいと、ただただ祈り願うようになることです。

     だからある人が、こういうことを言いました。なぜ旧約聖書の初めの方に、復活について事細かに書いていないのだろうか。特にサドカイ派の人々が興味を持ったように、今の夫婦関係が死んだ後にはどうなるだろうか。そんなことについて何も書かなかったのは、なぜなのだろうか。それは、もともとそのようなことには興味が無かったからなのである。神は生きておられる。その生きた神との生きた関わりの中にある、その生活を今ここで生きているならば、死んだ後のことなどについては思い煩わないで済むということを確信していたからではないか。だから旧約聖書全体を通じても、復活についての余計な詮索が繰り返し語られるということはないのです。そして、主イエスの甦りの事実に生かされることが始まった時、新約聖書はまさにそのキリストの甦りに基づいて、思い違いをすることなく、私たち自身の甦りのいのちについて確信をもって語ることができるようになりました。これは、私たちに与えられている大きなさいわいです。地上のいのちは、それぞれに神が与えてくださったものです。何年、どのように、どこに生きるか、人さまざまであろうと思います。けれども、どの人にとっても間違いのない仕方で、神は、「わたしはあなたの神」と言いつつ、臨んでいてくださいます。そのような者がここに集まっています。こんなさいわいな群れはないと思っています。