カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストのまなざしの中で

    2017年11月26日
    創世記18:9-15、マルコ10:17-34
    関 伸子 牧師

     今日ご一緒に読みました、マルコによる福音書第10章の21節に、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。これは、文語訳では、「いつくしみて言い給う」と訳しており、口語訳になっても、新共同訳になっても変わらないのです。しかし、この「慈しむ」というところは、原文では、「イエスが彼を愛された」と明確に書かれているのです。もう少し原文のニュアンスを強調して言えば、「イエスは彼をじっとご覧になって、そして、ご覧になっていながら、そこで、彼に対する愛を抱かれた」となります。愛が起こったのです。ですから、ごく最近の英語の翻訳はこう訳しています。「イエスは彼を真っすぐにご覧になり、その心が愛に燃えた」。

     愛とは、ひとつの出来事です。私たちが人を愛するときも、それは出来事になる。誰かに会う、その顔をじっと見る、言葉を交わす。その間に、その人に対する愛が燃え上がって来るのです。これは激しい主イエスの愛の物語です。

     ある説教者が、一読忘れ難い説教を書き残してくれました。「主は彼を愛された。この主の愛から光が放たれている。私たちもその光の中に立つ」。そのように語り始めるのです。私たちすべての者、私もその光の中に立つ。永遠のいのちを受け継ぐのにどうしたらいいのでしょうかと、主に問い始めます。

     「永遠の命を受け継ぐには」と言いました。この「受け継ぐ」というのは、財産を親からもらう時に使う言葉です。それがいのちについても使われる。ユダヤの人びとはこういう表現をいつも用いていたようです。死のこちら側では、自力で何か獲得するということができるかもしれない。けれども、向こう側で生きるいのちは、自分の力で手に入れることはできないことと、それはどんなに財産を積んでもできないことを知っている。ちょうど親から財産を分けてもらうように、この場合には明らかに、神からいただくよりほかないのです。

     この人は「善い先生」とイエスを呼びました。この「善い」という言葉は、実際には、あまり人間に当てはめて使うことはなかったそうです。主イエスは、「善い先生」と呼ばれたが、その「善い」という言葉は神にだけ用いたらよいと言われます。

     男は、もちろん人殺しなどはしていない。明らかです。それに始まるすべての戒めをきちんと守っている。そう答えた時に、主イエスの愛が明確に現れたのです。 ただそこで、この男に言われたように、私たちにも言われます。「あなたに欠けているものが一つある」。この言葉は何を意味するのか。

     ある注解者が、その解き明かしの中で、面白いことを言っています。いくら財産があろうがなかろうが、主イエスに言われたから財産を捨ててみたところで、主イエスの後について行きながらその財産が気になってしょうがないというのが、私たちではないか。そうであれば、私たちがまだ主のみ言葉に従ったということにはならないであろう。なるほど、その通りです。明らかに私たちに欠けているのは、いや、どんなことをしてでも主イエスの後について行こう、という決意です。

     この男は暗い顔をして立ち去った。「気を落とす」と訳されている言葉は、しばしば、「彼の顔が暗くなった」とも訳されます。暗い顔をして、絶望的に、主のところから去っていく。財産がたくさんあったのです。主イエスという方は、どうしてこんなことをおっしゃったのだろうか。ふとどこかでそうつぶやきたくなります。それだけではない。その立ち去って行く男の姿を見つめながら、弟子たちは言うのです。私たちはイエスさまについてききました、ペトロは、誇らしげにそう言ったのです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。しかしこの時ペトロが効き落としていることがある。主イエスはそれに先立って、彼らに視線を注いで言われました、「人間にできることではないが、神にはできる」。

     先ほど創世記第18章の物語を読みました。「人にはできないが神にはできる」という言葉を明確に証しする出来事、その第一に上げられるのが、創世記のこの記事が語る出来事です。夫婦共に年を取り、出産の望みは失せていた。それなのに神は、あなたがたの子孫は星の数のように賑やかになると言われた。そんなバカなことはない。そう思っていたアブラハムたち老夫婦のところに神の使いが来て、来年わたしたちが来る時に、あなたがたには子どもができると言った。妻サラは笑ったのです。サラに笑われるような可能性がここでも語られるのです。弟子たちもまだそのことに気づいていない。わたしたちはすべてを捨てて従ってきました、そう言っている限り、この弟子たちはやがて主イエスについていくことができなくなるのです。なるほど、わたしたちには不可能だ、神にはできるのだというところに引きずり込まれなければならなかったのです。そして、そこでこそ教会は生まれたのです。

     主イエスは、29節で、その弟子たちの言葉、ペトロの言葉に答えて、「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受ける」と言われました。主イエスは、ご自身のいのちを賭けた恵みの中に、私たちが飛び込んでいった時に生まれる新しい生き方だけをお求めになるのです。

     実にたくさんの宣教師たちが、キリストの教会の伝道のわざのためにのみ生きて来た。私たちも、そのような宣教師を何人も知っている。その宣教師たちに会っていちばん驚くのは、何気なく自由に故国を離れていることです。なぜこんなに解き放たれた顔で、喜んで異国に生きることができるのか。これは、私たちが伝道者に最もよく教えられることです。それは、主イエスの愛のまなざしがその人を捕らえて離さないからです。そこに生まれる明るい自由です。その人の手柄でもない。だから自由なのです。そのことを私たちは、私たち自身にも与えられた恵みとして、心から感謝したいと思います。お祈りをいたします。