カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の言葉を無にせず

    2017年12月10日
    イザヤ書29:13-21、マルコ7:1-13
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第7章の1節から13節に語られているみ言葉の中に、私たちがすぐに気づく、いくつかの鋭い表現に出会います。8節に、「あなたたちは神のおきてを捨てて」、9節に、「神のおきてをないがしろにした」、13節に、「神の言葉を無にしている」。「捨てた」、「ないがしろにした」、「無にしている」。神の言葉を捨てているということは、あなたがたの生活の中で神が定められたことをないがしろにしている、ということです。

     神の言葉復権のために主イエスが戦われた時、この主イエスを支えていたのは、預言者の言葉です。主はここで、その預言者イザヤの言葉を引用なさる時、6節に、「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ」とおっしゃっておられる。この「見事に」という訳は、元のギリシア語は、「美しく」とも訳せる言葉ですけれども、ここは偽善者のことを美しく預言したとは言えない。せいぜい「すばらしい」ぐらいでしょう。主イエスが神の言葉復権のために戦われた時、最も厳しく問われたのは、この偽善です。偽善というのは、仮面をつけて芝居を演じる役者のことをまず意味したと言われる。見栄えのいい、人びとの心を喜ばせる面をつける。人の目に見栄えよく生きようと思うから、偽善に誘われるのです。

     主イエスがなぜここで、このようなことをお語りになるようなことになったか。それにはきっかけがありました。主とその弟子たちが、ガリラヤで伝道に熱中していた時に、エルサレムからファリサイ派の人びとと律法学者何人かがやって来た。そして直ちに、報告に値するイエスとその弟子たちの過ちを見つけたのです。

     それは、食事の時に手を洗わないという、はっきりとした具体的な事実でした。ここに「汚れた手」と訳されている「汚れ」ですが、ここで用いられている言葉は、「コイノス」という言葉なのです。コイノスというのは、「日常的なもの」という意味の言葉です。日常の生活というのは世俗の生活です。そしてそこから出て来て聖なる生活に入るのですから、どこかできちんと分けなければならない。

     なぜ日常生活において自分たちは汚れると思うのか。汚れた人と付き合うからです。もしかすると、どこかで同じ食器で物を食べたかもしれない。だからここに、手を洗うだけではない、器を全部きれいにすること、寝台まで清めることが求められたのです。しかも物の本によると、その清め方もきちんと定められていました。

     滑稽だと思うけれども、手はどういうふうに洗いますか、正しいきよめかたとは何ですか。そういう問いが出て来ます。なぜそんなに気にするのでしょうか。あの人は汚れた生活をしていると言われたくないからです。あの人の生活はきちんと神の定めの道にのっとっていると、人の目に見栄えがよくないと困ると思うからです。

     主イエスの自由な生き方は、エルサレムからやってきた人びとの目から見ると、「固く守る」(4節)生活から遠いものであったし、5節のはっきりした批判の言葉で言えば、「昔の人の言い伝えに従って」歩いていない、そう言ったのです。

     ここで、主イエスは、イザヤ書第29章の言葉を引用なさっています。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」。神からの遠さを問うておられるのです。主イエスは続いて、なぜ、どのように、神のおきてがないがしろにされているかということの具体的な例として、「父と子を敬え」という最も基本的な十戒の教えが、あなたがたの中でどうなっているかということを指摘なさった。神から遠くなっている人間にとって、父母もまた遠いということです。

     「コルバン」という面白い言葉が出て来ます。福音書記者が、きちんと説明していて、「神への供えもの」という意味だとしています。父と母を敬うことを律法は教えている。父母を敬うことのできない者、父母を罵る者は、死刑に遭っても仕方がないとモーセは教えた。父や母を尊ぶということは、とても具体的なことです。年をとって来て自力では生きて行かれなくなった父母の面倒を見る。自分の持っているもので父や母を養ってあげなければいけなくなる。これが既に私たちにとって、なかなか難しい問題だということを皆知っています。正直にそれを認める。
    主イエスは、神の言葉に真実の力があることを、皆が認めるようになるようにと、ひたすら心を砕かれた。ファリサイ派の人びとにも、そのことを知ってもらいたかった。この後の第8章でお語りになるのは、だからこそ、わたしは十字架において殺されるということであったのです。

     私たちは、こういう主イエスのみ言葉を読んでいると、だんだん心が重くなります。顔が上がらなくなります。審かれていることを知ります。主イエスのみ顔の前で、そのみ言葉に打たれた、顔が上がらないという経験をすることは、私たちにとって、とても大切なことです。マルコによる福音書は、繰り返し語ります。主イエスが何のために来られたか。人を愛するため、神の言葉を回復するためでした。そのことを、主が、ご自身で説明しておられます。だからこそ、十字架につくために来られたのです。それは、み子の死なくしては、神の言葉がついには立たなくなるからです。私たち自身が、神に近く立ち、そして必要な人のそばに、近く立つことが出来る人間になることができないままになるからです。そのことを私たちは、深い謙遜と、また、主イエスに対する心からの信頼をもって受け止め直すことが今求められています。そこに立った時に初めて、主イエスがなさったこと、お語りになったことの意味が、皆見えてきます。主イエスが、どんなに美しく神の恵みを明らかにしてくださったか、私たちもまた、偽善者の見栄ではなくて、真実の意味で見栄えよく、神の恵みによって装われて、美しい歩みを造ることができるようになったか。このことを、繰り返し、繰り返し、なおマルコの言葉に学び続けて、アドベントのこの時に、主のご降誕の喜びの時を迎えたいと心から願います。