カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真理の声を聞こう

    2017年12月17日
    イザヤ書40:27-31、マルコ1:1-8
    関 伸子 牧師

     マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉をもって始めました。そしてその喜びについて語り始めたときに、洗礼者ヨハネの物語から始めるのです。洗礼者ヨハネ、これは主イエスの先駆者であるということを私たちは知っています。6節を見ると、「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」とあります。何となくその姿を想像すると、こわーい顔をして、禁欲的な生活をしている。厳しい預言者の姿を考える。

     マルコはまず預言者イザヤの書にこう書いてあると言い、そのイザヤの言葉の通りに、洗礼者ヨハネが現れたと言っている。この光の中で、ヨハネを見ようというのです。最初の「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし」というのは、出エジプト記の第23章の20節です。ここで言う「あなた」というのは、イスラエルの民、エジプトをようやく脱出することができて、まだ荒れ野の旅を続けていた神の民のことです。まさに、荒れ野において聞いた言葉です。

     その次の、「あなたの道を準備させる」という言葉、マラキ書第3章1節の言葉です。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」とあります。神さまが来られる前の、道備えをする使者を送るとマラキ書は言うのです。

     もうひとつ、3節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする、主の道を整え、まっすぐにせよ」という言葉。これは旧約聖書の真ん中にある、イザヤ書40章3節の言葉です。この第二イザヤの言葉は、イスラエルの歴史のなかでも最も悲劇的な時代、バビロニアに滅ぼされて、イスラエルの王だった人々がバビロニアの都に連れていかれた時代のことです。その人びとがしばしば望郷の思いに駆られて、そこで思い浮かべるのは、自分たちをへだてている荒れ野の荒涼たる姿であったのです。

     その荒れ野で声が聞こえた。その声が言うのは、「主の道を整えよ、主の道をまっすぐにせよ」です。荒れ野のひとつの特徴は道がないということでしょう。そこに、道をつける。神がイスラエルに帰って行く。その道を整えよう。そういう呼び声がする。その後ろから、私たちもついて行ける、その日が来るという望みの歌です。あのヘンデルの「メサイア」は、主イエスのご生涯を歌い始める冒頭において、この言葉を含むイザヤ書の第40章を独唱、合唱で歌わせて主イエスの物語を歌い始めました。神の民イスラエルが、神と共に解き放たれて故郷に帰る。その先駆けの声、それがヨハネです。だから、マルコ福音書がヨハネの話をした時に、とうとうこの第二イザヤの預言が、ここに成就したと書けるのだという喜びがありました。

     出エジプト記は、イスラエルの信仰の歴史の最初を語るものです。十戒も、この出エジプトの旅の半ばで与えられたものです。神はこのような解放の神である。わたしたちが主イエス・キリストを信じて生きるということは、神がおられる、しかも、ここに来てくださった神であるということを信じるということです。

     マルコは5節にこう書いています。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」。ただひとり荒れ野に立ったヨハネが、どうして皆を招くことができたか。それは、ヨハネは差別をしなかったからだと言うのです。この頃、洗礼を施すということは、ヨハネだけがしていたことではなかったのです。ユダヤ人は洗礼を受ける必要がなかった。生まれながら聖いからです。しかしユダヤ人でない人は聖くないから、まず水で体を清め、それから割礼を受けなければいけないという要求が出されたのです。しかも、ユダヤ人だからと言って洗礼を受けられるわけではありません。ちゃんと聖書を勉強しなければだめです。聖書の通り生きていなければだめです。正真正銘のイスラエルの人だと思われる者だけが洗礼を受けた。

     ヨハネはそれも知っていたのかもしれません。異邦人への洗礼も知っていたのかもしれません。けれども、すべてそのような差別、区別を取り払い、皆が受けなければいけない。受けることができる、そういうものとして、バプテスマの運動を始めたのです。なぜか。罪の赦しを得るために悔い改める必要が皆あるからです。悔い改めなくたって生きて行かれるという意味での、義しい人はひとりもいないからです。悔い改めるという言葉は、元のヘブライ語に戻ると「帰る」という言葉です。「向きを変えて帰る」ということです。今までの道の歩き方が間違っていたと言って、向きを変えてどこへ帰っていくのか。神さまのところへ帰って行くのです。皆、向きを変えるのです。洗礼を受けるということはそういうことです。

     マルコが大切だと信じたのは、罪を知った者は赦されるということでした。そして、その運動のなかで彼はこう言ったのです。「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と。この「優れた」という言葉は元の言葉を直訳すると「力ある」というのです。この〈力〉とは何か。8節の言葉で言えば、「聖霊でバプテスマを授ける」ということです。もちろん主イエスのことです。神ご自身が働いて、わたしたちにバプテスマを施してくださる。教会、牧師、小会は、その神さまのみわざのために用いられる道具でしかありません。だから教会は喜びを語り続けるのです。

     ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。靴のひもを解くというのは奴隷の仕事です。新共同訳と口語訳との大きな違いは、8節で「わたしは水であなたたちに」と、「あなたたちに」という言葉を書き加えたことです。ギリシア語では、水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊であなたたちにバプテスマをお授けになると、繰り返すのです。「あなたたち」です。私たちです。私たちのところに主が来られたのです。今、ここにおられるのです。喜びの主が私たちをもてなしてくださり、送りだしてくださること、それだけが、それこそが私たちの望みなのです。お祈りをいたします。