カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 喜びの中のクリスマス

    2017年12月31日
    イザヤ63:15-64:8、マタイ2:1-12
    関 伸子 牧師

     年末を迎えています。一方でクリスマスの喜びを味わいながら、年賀状を書いておられる方もあるかもしれません。今年、何となく心に残ったことがあります。それは、いつもの年より多くの「喪中につき、年賀状を失礼したい」という挨拶がすでに届いているということです。

     私たちはクリスマスを祝いました。そのクリスマスを祝う時にも、たとえば「自分は喪中だからクリスマスを祝う資格がない」とか、「クリスマスの喜びは自分にはない」ということが言えるのでしょうか。よくこの時期にヨハン・セバスチャン・バッハが作った「クリスマス・オラトリオ」を聞きます。素朴なものですけれども、どんなに喜びの調べに満ちているかということに心を打たれます。

     たった独りで、家族も何もかも失ってしまって、どん底の中に落ち込んでいるようなところで、そこに突き通って来るのがクリスマスの喜びです。

     マタイによる福音書第2章の1節から12節までを、ご一緒に読みました。クリスマスは喜びの時であり、喜びを歌う歌に満ちているようですけれども、喜びについて語っているところは、たった一か所だけです。9節以下です。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に留まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。

     それ以外の言葉は、1節から読んでいくと、「不安」や、あるいは生まれたばかりのイエスを殺そうとする「殺意」や、「悲しみ」や、「恐れ」、そうした思いが一杯に語られているのです。そういう中で、この10節の言葉だけに「喜び」が記されています。ただ、興味あることに、この「非常な喜びにあふれた」というのは、ギリシア語の原文を読んでみると、独特の表現になっています。

     考えてみると、このベツレヘムにおいて、イエスという方がお生まれになったばかりに、何人もの母親が、自分の子どもをヘロデ王に殺されるという経験をするのです。ベツレヘムの町中に「喪中につき失礼」という札を張った方がよさそうです。

     しかも、ここでこんなに喜んだのは誰かということです。「東の方から来た占星術の学者たち」と書いてあります。この「東」という言葉を聴いた時、ユダヤの人びとは、どんなことを思い浮かべるのでしょうか。アッシリア、バビロン、ペルシア。イザヤ、それに、ミカ、エレミヤといった預言者たちが関わりを持った歴史的な事件は、ユダヤの国の人びとがアッシリア、あるいはバビロンの国に捕らえられたという悲劇的な事件です。ユダヤ人にとっては憎むべき、自分たちを神の宮から引き離して行った、少しも神を信じていない国の人たちなのです。

     「学者たち」と訳されている言葉は、原文は「マゴス」という言葉です。英語の「マジック」という言葉の語源となった言葉だと言います。言ってみれば「魔術師」。そして、星を見てやってきたというのですから、星占いの先生でもあったと言うこともできます。クリスマスの時に、このマタイによる福音書が語っているこの記事によって、たった三人だけが、本当に大きな喜びに溢れて幼な子イエスに会うことができたのです。ユダヤの人びとが、神さまに関係がない、神さまに救われるはずはないのだと思っていた異邦人が主イエスにお目にかかったのです。

     この博士たちに「ベツレヘムにお生まれになっているはずだ」と伝えたのは、ヘロデ王だったのです。この博士たちを先へやって、イエスを見つけさせて、後から自分たちが言って、そのイエスを殺すためだったのです。このヘロデも生粋のユダヤ人ではないし、信仰深くもないのです。むしろ異教の国ローマにへつらってようやく権威を保つ世俗の王でした。マタイの伝えるクリスマスの物語は、このように読んでくると、実に、痛烈な意味を持つ物語だったのです。

     この三人の学者たちの歩みを見ていると、神さまというのは、本当に不思議なことをなさる方だと思います。神さまは、星占いの道が間違っていることをご承知でした。しかも、彼らが、ユダヤの民に属さない異教徒であることを承知しておられました。主イエスに御会いする、その喜びを味わうのには、全く何の資格も持たない者であることを一番よく知っておられる神は、クリスマスの喜びを指し示す者として、この三人の学者たちをお立てになったのです。

     このことはまた、ユダヤの人びとにとっても、本当は大きな喜びの訪れでもあるはずでした。しかし、ここで明らかになっているのは、ついにこのイエスを墓の中に追い込むまでに至った神の民イスラエルにとって、立場は逆転しているということです。今は、ユダヤ人が一番遠い人間になってしまったのです。

     しかし、先ほどのイザヤ書第64章は、まさにそのような神の民にも語られたのです。 「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり 奮い立ってあなたにすがろうとするものもない。あなたはわたしたちはら御顔を隠し わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父」。

     これが私たちの現実ではないだろうか。クリスマスに、私たちは喜んでここへ集まってきました。しかし、私たちの心の神から遠いこと、私たちの行っているわざの神の真理からの遠さを、痛烈に味わわずにはおれないのではないか。しかし、神さまは私たちのために来てくださるのです。そして、悲しみの中にあっても、喪中であっても、どんな自分の不信仰に逆らっても、疑いに逆らっても、「されど」、それにもかかわらず、「神はわれらの父」と呼び、叫ぶことができる。その叫びの中で、クリスマスの歌声が生まれるのです。

     その神の父の姿を示すために、み子は生まれ、苦しみ、悲しみ、死に、そして甦ってくださったのです。今、クリスマスの喜びに導かれて新しい年を迎えることのできる幸いを、心から感謝したいと思います。お祈りいたします。