カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主にあって喜ぶ

    2018年1月7日
    詩編98:1-9、フィリピ4:4
    関 伸子 牧師

     何かことがあるたびに、喜びなさいと言ってもらうことができるとしたら、大変に幸せなことです。なかなか喜ぶことの難しい私たちの生活です。今日読んでいるフィリピの信徒への手紙には、こんなに短い手紙ですが、この第4章4節までに、すでに4回、喜びという言葉が出てきました。その中でも特に第2章17-18節には、繰り返して喜びなさい、と力をこめて告げられています。

     しかし、この手紙は、使徒パウロが、牢獄の中から書いているというのですから大変なことです。使徒言行録16章25節を読みますと、このパウロがフィリピの町で伝道して捕らえられ牢獄に入れられた時に、夜中にも大声で喜んで賛美歌を歌っていたと書いてあります。そこに、私たちが今日もこの手紙を読んで、大変な迫力を感じる理由があるわけです。

     生きるということは、本当は喜ぶということです。信仰の生活をしているということと喜んで暮らして行くということとは、切り離すことができないのです。

     アメリカの古い信仰の小説で、日本にも訳のある『パレアナ』(ポリアンナ)という本があります。ある貧しい牧師の家庭の娘が、両親が死んで、わずかなものを持って、大変に気難しい未婚のおばさんのところに引き取られる話です。大変厳しいやかましいおばさんで、物はあるのですが屋根裏に住まわされて、普通から言えば何も喜べるものはないのですが、その生活の中で喜びにあふれた生活をして、まわりの人をだんだん感化して行くという話です。この娘は亡くなった牧師のお父さんから教えてもらった喜びの遊びというものを覚えました。いろいろな時に、その喜びの遊びでいろいろなことを喜びに変えて喜ぶのです。

     主において、というのは、主イエス・キリストを信じてということなのです。主イエス・キリストを信じるのは、言うまでもなく、キリストの十字架と復活によって救われたことを信じることです。それを信じて生きて行くことです。主にある者というのは、主イエス・キリストを信じて、自分のようなものも、罪のある人間だが、罪赦されて神のものとされた確信を持って生きてゆくことができるのです。

     主において喜ぶということの第二番目は5節の終わりに書いてあることです。それは、主は近いということです。主の十字架と復活を身をもって体験した弟子たちの立場に身をおいて考えてみたいのです。主イエスが再び天にお帰りになられた時に、この人たちはおそらく、主イエスは、実際にはいなくなられたのですが、この方はいつも自分たちと一緒にいてくださって、そして必ず再び帰って来てくださると確信したに違いありません。主があらかじめ言っておられたように、必ずまた帰って来てくださると思ったでしょう。

     したがって、この当時の教会には一つの合言葉がありました。コリントの信徒への手紙一第16章22節に、わざわざ片仮名でマラナ・タと書いています。マラナ・タというのは、主よ来たりたまえという、その当時の人が使っている言葉なのです。
     主は近いという言葉は、その当時の言葉から言えば、確かに、主イエスは間もなくおいでになるという言葉ですが、しかしその中に秘められているもう一つの意味は、主イエスはここにおられるということです。その信仰が支えとなって、キリストの教会はユダヤの小さな数十人の群れから全世界に広まる、大きな力を持った教会にまでなってきたのです。目に見得ない主のほうが自分に近いということを信じている人がこのように喜んだのです。

     人間の生活にはいつもいろいろな変化が起こってきます。それも思いがけない変化が起こってきます。神を信じ、神に信頼しているということは、本来目に見得ない神を信頼しているのです。

     最後のもう一つ、聖書から教えられたいことは、こういう動くことのない喜びはどこに現れてくるかということです。そうでなければ、雲をつかむようなことになる恐れがあるからです。先ほど、詩編第98編を読みました。ここにも喜ぶという字がしきりに出てくるのです。そしてその喜びというのは、一つはっきりした意味が書いてあります。たとえば4節には、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」と書いてあります。つまりここで言っていることは、神を喜んでいるということです。神に祈ることを喜ぶのは、神と一緒であるということを喜ぶことで神そのものを喜ぶということです。

     神を賛美するというのは言うまでもなく、神を礼拝することです。私たちは神を礼拝する時に、本当に神の勝利を見ることができるのです。詩編第73編には、この世の生活を見ると、不公平で、悪いことをしている者が栄えて、自分はいたずらにただ自分を聖くしていたと書いてあります。しかし自分は、神の聖所、礼拝の場所に行った時に、はじめて彼等の終わりを知ることができて安心することができたと言うのです。礼拝の場所はそういうところです。主なる神がこの世を公平にさばき、その力を現わされることを一番信じることができるのは礼拝の場所です。ここで神を賛美し、神を拝んで、私たちははじめて神を心から喜ぶことができ、そのことによって私たち自身の生活において喜びを持つことができるのです。これは何ものによっても破ることができないこと。しかもあらゆる喜びの基になる喜びです。
     神を賛美するというのは今言いましたように、私たちにとっては礼拝です。それは礼拝が嬉しいというだけではなくて、この礼拝をすることによって自分の生活全部に喜びが与えられる、そういう仕方で私たちは礼拝をしなければならないのです。

     いつもニコニコしてはいないかもしれません、悲しんでいるように見えるけれども、ほんとうに神による喜びに満たされているのです。それが私たちに与えられた信仰生活、私たちのような信仰者にも約束されている信仰生活なのです。