カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 天が見えた

    2018年1月14日
    詩編2:1-12、マルコ1:9-11
    関 伸子 牧師

     芝居をつくる。演出する。その時におそらくとても重要なのは、主役をどのように登場させるかということでしょう。バレエを観ていて、いよいよプロマ・バレリーナ、主役が登場する時には、きちっと計算された段取りが取られた上で、スポットライトを浴びて美しい女性が登場するのです。この福音書を書いた側からすれば、これから、わたしが書き綴る主イエスの姿を読む方たちよ、聞く方たちよ、主イエスはこういう方だと思って聞き続け、読み続けていただきたいという願いをこめて、主に登場願うのです。どういう方としてか。洗礼をお受けになった方としてです。

     それはどういうことか。私たちが主イエスの仲間だということです。
     主イエスが洗礼を受け、やがて弟子たちをお招きになって、毎日寝食をともにして伝道の旅を続けられたときに、大切なことをいくつもお話しになった。そのひとつが主イエスご自身の洗礼の経験であったと思います。

     主は、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降ってくるのを御覧になった」。「水の中から上がる」、と書いてありますが、ヨルダン川の水の中に自分で全身を浸したのです。それが洗礼を受けるということでした。全身を浸して、そしてその水から上がってこられたとき、すぐにご覧になったのは、それは「天が裂ける」ということでした。もう少し丁寧に原文のギリシア語の意味を生かして言うと、「天が今裂けつつあるのを見る」というのです。真っ黒に頭の上を閉ざしていた黒雲、毎日雨が降り続いて心まで暗くなる。誰かがこの雲をどけてくれないかと切実に思う。その時すうっと、雲がふたつに割れ、青空がのぞき、日の光まで射してくる。そんなふうに天が開かれるのを主イエスがご覧になったのです。

     この時の主イエスの体験を読む時に、多くの人びとが思い起こす旧約聖書の言葉があります。イザヤ書第63章の最後の言葉、19節の後半の言葉です。「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」。そのイザヤ書の言葉通りに、今、天が裂かれる。そして鳩のように天が動いてご自分に降ってくるのです。

     しかも、ご自分が聞いていたものを、これこそあなたがたも聞くべきもの、と弟子たちに語ってくださったにちがいないと思います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

     主がお聞きになったこの言葉は、どんな意味を持つのか。そこに三つの旧約聖書の言葉が浮かび上ってきます。まず、創世記の第22章です。創世記第22章は、信仰の父、アブラハムの物語です。そこで2節、12節、16節と読んでいくと、神はアブラハムにイサクのことを、「あなたの子」、「あなたはわたしの愛する子」という言葉。神の命令で父が自分を捧げようとした、その父の子であった。主イエスご自身の献身が、ここで父なる神によって決意され、告げられている、と読んだのです。

     第二の典拠は、先ほどご一緒に読んだ詩編第2編です。この詩編第2編は即位の詩編といわれていて、イスラエルの王が立てられたときに、この歌が歌われました。しかし、非常に強い、激しい歌です。まことに力に溢れた王が、神のご命令、その意志によって神の子として立たれる。だから、この詩編は、この後、メシア待望、救い主待望の心が生まれてきた時に、これは救い主を歌う歌だと理解されるようになりました。

     第三は、イザヤ書第42章1節です。これが最もマルコによる福音書に近いということです。この第42章は、すでにマルコ福音書第1章の3節で読みました、同じイザヤ書の言葉であった第40章に続くものです。

     この三つが一つになって、御自身を神に献げる者、神から王として君臨することを許された者、しかしその支配は、罪人が滅ぼされないで生かされるために、自ら僕となって人びとに仕えるという姿で実現する、そのような王の支配こそ主イエス・キリストに与えられた使命であることを告げるのです。誰に仕えるのか。罪人に仕えるのです。

     しかも、何人もの人びとが、この「天が裂けて」という言葉を、マルコによる福音書が、終わりに近く書いた「裂ける」という言葉と併せて読むことを求めます。第15章の38節です。マルコは第15章33節以下に、主イエスの死について語りました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、まさに暗黒のなかで主イエスが死んでいかれる姿を描いた。しかし、37節にはこう書いているのです。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。この「裂けた」という言葉は、先ほどの、天が「裂けた」と同じ言葉です。主イエスが地上の生涯を初められたときに天が裂け、その生涯の終わりにおいて神殿の幕が裂ける。もう神殿もいらなくなった。どこででも、いつでも神さまにお会いする道が開かれた。

     それに続く39節は「百人隊長が」と書き始めます。明らかにユダヤ人ではありません。ローマ人か、ローマ人に雇われている外国の人です。

     百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

     ここには、洗礼をお受けになった主イエスがお聞きになった天からの声に応ずる、地からの声があります。主イエスとは誰か。わたしと同じように洗礼を受けた方。そう知った時にこそ、私たちは帰るべきこところに帰ることができるのです。主をわたしの仲間と呼ぶときに、私たちの心は、へりくだざるを得ないと思います。そしてそのへりくだる、ひざまずく思いをもって、主が用意してくださった食卓にあずかることができる。私たちも一人ひとりがなお立ち得るのは、このことによる以外にないのです。お祈りをいたします。