カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の国への招き

    2018年1月21日
    イザヤ書63:15-19、マルコ1:14-15
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第1章の14節と15節は、主イエスがいよいよガリラヤにおいて伝道活動をお始めになった、そのことを告げる簡潔な叙述です。そうだ、時は満ちた。神の国は近づいた。いや、神の国は、もう来ている。だから私も悔い改めるのです。それが、信仰を言い表すということです。

     「宣べ伝えた」と訳す元の言葉は、さまざまな意味合いを帯びてきた言葉です。たとえば、詩人ホメーロスの詩のなかにも、この言葉がよく出てくるのです。王の布告を伝えるという意味の言葉としてです。それを伝えるのは王の使いです。

     ここでは宣べ伝えたのが何であったかということを、まずマルコ福音書は「神の福音」と呼びました。この「神の福音」という言葉は、聖書のなかにしばしば登場してきます。神について語ることがいつも嬉しいとは限りません。

     先ほど、イザヤ書第63章を読みました。このイザヤ書の言葉は、どこか悲しい響きがあります。呻くような祈りでしかありません。17節に、「立ち帰ってください」という言葉があります。神さまが不在なのです。だからこんな目に遭っているのだ。神さま、帰ってきてください。しかし、こういう言葉も記されているのです。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です」。

     暗い思いに立ち向かい、疑いを振り払うように、祈りのなかで、神を父と呼び始めているのです。そうだ、父なる神さまが帰ってきてくださる。主イエスが伝道をお始めになって、まずそこで語られたのは、まさにこのイザヤの祈りがここに成就するということです。だから「時は満ちた」のです。ついにその時が来たのです。

     この、私たちについての喜びの言葉の内容は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、神の福音を信じなさい」です。その内容的なことをもっと明瞭にして言う場合には、「神の国の福音」。「神の支配が近づいた」。これはどういうことか。

     あるカトリックの司祭の方が書いた本を読んだことがあります。その方は、日本語が聖書の真理を言い表すのに適切な言葉なのに、それを忘れているところがあるのではないか、という問題提起をします。たとえば一つ例をあげると、私たちが電車が来るのをプラットフォームで待っている。そうすると、スピーカーが知らせる。どこの駅でも、「電車が来ますから、白線の後ろへさがってください」と言う。それは間違いだ、と言うのです。入ってくるときには、来るという現在形で、止まると、来たになる。それが完了形です。しかし、その方の意見によれば、日本語で正しく言うならば、「電車が来ましたから、うしろへさがってください」と言うべきだと言うのです。それはなぜかというと、電車がもうすぐそこまで近づいたと言ったら、私たちとひとつの関係が生まれたことで、今もうさがらないと危険だということなのです。その司祭は、そこで既に電車の話ではなくて、私たちと神の関係を語っているのです。それは、神の国の接近を告げる言葉が持つ意味でもあるのです。

     興味のあることです。主イエスがここで、「神の国は近づいた」とおっしゃったのも、この司祭の言葉でいえば、まさに電車が来たのと同じです。神の国が近づいた。もうあなたがたと関係が出来た。だからこそ、悔い改めなさいという切実な求めが続くのです。そうでなければ、悔い改めるということは起こりません。

     時は成就し、古い時は去ったということ、神のご支配が新しく始まったということ、だから悔い改めるのだということ、この三つのことは、教会の説教の基本的な内容を示すものとなりました。使徒言行録を読んでいくと、最初に使徒ペトロが説教をしたことを記す第2章から始まり、何度も、ペトロであろうが、あるいはパウロであろうが、当時の教会の指導者が、どの説教も結局、同じことを言っている。

     時は満ちた。今私たちが告げているのは、イザヤその他が待ちこがれていた神の救い到来の時だ。神の計画が今ここに成就する。それが第一部です。第三部は、悔い改めて、わたしたちが語っている福音を信じなさい。教会の仲間に入りなさい。だから洗礼を受けなさい、という勧めになります。中核の第二部、そこで、主イエスご自身は神の国についてお語りになりました。ペトロが語った最初の説教と考えられる使徒言行録第2章に語っている言葉は、わたしたちが十字架につけて殺したイエスを、神はよみがえらせてわたしたちの主となさった、ということです。ここでペトロが言っていることは大事です。「あなたがたが十字架につけたイエス」と言っています。主イエスを守ったのは神です。イエスの勝利は神の与えたものです。ペトロ自身は、むしろ十字架につけた側にあります。だから、この「あなたがた」は、「わたしたち」です。わたしたち、わたしたち皆が、十字架につけてしまった。そのイエスを神が甦らせてくださった。そして、わたしたちの主にしてくださった。

     わたしたちが主を十字架に追いやった。主イエスもまた、十字架に引き渡された。実際に聖書において、ヨハネが渡された、というのと同じ言葉で主イエスの歩みが語られるようになります。だから、後の教会の人びとが、「神の国は近づいた」という言葉に代わって、主イエスは、わたしたちのために死んでくださった、甦ってくださった、という事実を告げる言葉をそこにあてはめたということは、間違いではない。そして悔い改める。悔い改めるというのは、向きを変えるということです。神さまのところへ帰っていくことです。

     宗教改革者ルターは、キリスト者の全生涯が日々、悔い改めだということを言いました。これが、彼の起こした宗教改革の出発点になった大きな真理の発見です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。この言葉が私たちにとって日々、喜びの響きをたてるものとなりますように、霊の導きを願いたいと思います。
    お祈りをいたします。