カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真理を聞く耳を

    2018年1月28日
    エレミヤ9:9-12、マルコ4:1-20
    関 伸子 牧師

     この朝、マルコによる福音書第4章1節から20節までを読みましたけれども、1節から9節までは、「『種を蒔く人』のたとえ」とあり、第二の段落、10節から12節までは、「たとえを用いて話す理由」とあり、第三番目の区分は「『種を蒔く人』のたとえの説明」となっています。

     13節以下の言葉は、主イエスの、1節以下に記されている譬え話を改めて語り直したのだと理解します。主が語ろうとした神の国は、たいへん具体的なものです。しかし、私たちの目には見えないのです。

     そこで主イエスも譬えをもって語り始める。ガリラヤ湖畔で、舟に乗って語られる。舟に乗って離れないと群衆があまりにも近くに迫りすぎるのです。聞いている人びとの身近なことです。農耕の譬えです。私たちには少しぴんと来ないところがありますけれども、解説書を開いて読むと、たとえばこの頃のパレスチナで、麦をどのように蒔くかというと、耕す前に、さーっと種を一面に蒔いておいて、そこに鋤を入れた。そうすると、こちん、こちんとすぐ下に石があって、うまく耕せないところとか、耕している間に種が道端に飛んでいってしまって、そこで育たなくなるとかいうことになるのです。

     10節以下については、「たとえを用いて話す理由」という表題がついています。なぜ主イエスはこんな話をなさったのだろうと問う。アラム語で〈譬え〉というのは〈謎〉という意味があったのだそうです。ここでは、神の国の謎、神のご支配というのが隠されている、そのことがこの譬えで言い表されているのだと、マルコ福音書は説明する。推理小説を読んでも、謎というのは覆われている。神の国は見えない。人びとは間違いを犯してしまう。「外の人々」と書いてあります。この、「外」というのは、この神のご支配の外に立ってしまっている人ということです。そうすると神のご支配が見えない。

     主イエスが3節以下で種を蒔く人の譬えをなさったときに、まずどんなことを言われたか。「よく聞きなさい」です。終わったあとで何とおっしゃったかというと、「聞く耳のある者は聞きなさい」。そして、興味のあることに、主イエスの譬えのなかでは、この種は何であるとか、この種を蒔く人は誰であるかということは何の説明もしないけれども、13節以下で、当時の教会の人びとが迫害に耐えながら、この主の譬えをかみしめた時に、この種はまず何よりも、〈み言葉〉だと考えた。しかし同時に、16節では、「石だらけの所に蒔かれたものとは、こういう人たちである」、つまり、種は自分たちのことだとも考える。実らない所に落ちたのは、その種の責任だと考えるようになりました。恐らくそうした思いのなかで12節の言葉を聞いたのだと思います。「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」。

     これは、預言者イザヤが神の召しを受けて預言者として立った時に、すでにそこで神から聞いた言葉の一節です。イザヤ書第6章に記されている言葉です。このイザヤ書の言葉に併せて、先ほどエレミヤ書第9章の言葉を読みました。エレミヤもまた、主のみ言葉を委ねられて生きた預言者ですけれども、ここで、わたしの教えを彼らが捨て、わたしの声に聞き従わなかったために、神の国、神の町の荒廃を告げる預言者としてエレミヤは立たされてしまった。イザヤも同じであった。この主イエスの種蒔きの譬えの前半が、何度種をまいてもそれが意味をもたないことをさまざまな形で語ることは、これは主イエスご自身の種蒔きもまた、はじめは虚しいものであることを、主イエスご自身がはっきりお語りになっていることと読むべきであろうと思います。なぜなのだろうか。新共同訳の翻訳でいえば、「立ち帰って赦されることがない」のです。この「立ち帰って」というのは、「口語訳」では、「悔い改めて」という言葉です。主イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。しかし、この「悔い改める」という言葉を誰もが聞き過ごしてしまう。悔い改めの柔らかな心がなければ、聞く耳が開けてこない。マルコ福音書は、主の言葉をまず、そのように聞き取っていたのであろうと思います。

     かつて、西ドイツの大統領リヒャルト・フォン・ヴァイッゼッカーという方の1985年5月8日のドイツ国会における演説、これは岩波書店から『荒れ野の40年』という題でパンフレットに刊行されたものを読みました。こういう言葉があります。「過去を清算することが大切なのではありません。それはわれわれには不可能です。しかし過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります。かつての、非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうのです」。これは忘れてはならない言葉です。自分たちがどんなことをしたかということをごまかさない。そのことが大事なことです。

     主イエス・キリストの言葉は謎であり続けた、この主イエスの心を拒み続けた頑なさ、悔い改めを知らない心は、遂に主イエスを十字架につけた。そして、そこで神の国はまことに不思議なことに、その力を発揮した。神のみこころはそこで実現したのです。主イエスは、この神のご支配を、御自身の存在をかけることによって貫かれたし、父なる神はこれに応えて主イエスを甦るように力を添えてくださった。私たちを、立つべきところにこのようにして立たせてくださったのです。

     マルコ福音書は、この主イエスの十字架と復活を確信するところに生まれた教会の文書です。そこで、この十字架と甦りの光の中で、主がお語りになった言葉を皆が何度も語り、聞き、尋ね、問い、祈ったのだと思います。そしてこの記録が生まれた。私たちはいったい、この主のみ言葉をどのように聞き、私たちの教会はこれをどう聞いたという記録を後世に残すのでしょうか。お祈りをいたします。