カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 救いへの突進

    218年2月4日
    創世記18:22-33、マルコ2:1-12
    関 伸子 牧師

     ある方によると、説教というのは聖書が持っているリズムを伝える言葉である、そのことを考えなければいけないというのです。主イエスがお語りになった時に、今、生きて働いておられる神の働きのリズムを伝えるような、そういう話をなさったに違いない。しかもそれはとても静かな、満たされた時であったでしょう。

     そこに、突然、物音が起こる。人ひとり通り抜ける穴をあけたというのですから、ずいぶん大きな穴があいたのだし、その分の土を全部上にすくいあげたわけでもないでしょう。天上の壁土がぽろぽろ下へ落ち始める。4人の男が病人を連れて来たのです。「中風の人」と書いてありますけれども、脳卒中とは限らない。元の言葉はとにかく「体が動かない人」ということです。体が麻痺しているから、イエスさまのところに行きたいと願っても行かれない。それなら担ってやろう、と言い出してくれた人たちがあったのでしょう。やっとの思いで連れてきたら、主イエスのおられる家は、もう人でいっぱい。この頃の家は屋上に上がる階段が必ずついていたそうです。その階段を上がっていく。このへんではないか。とにかくここと見当つけよう。そして、思い切って穴をあける。人びとがびっくりし、ざわめき立つなかで、屋上にいる4人が主イエスに、「この人を助けてやってください、治してやってください、お願いします」と叫んだかもしれません。

     マルコ福音書第2章5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て」と書きました。「その人たちの信仰」、癒される人よりも、その人を運んでくる人たちの熱心を、主は信仰と認めておられるのです。マルコ福音書が人びとの主イエスに対する信仰について語ったのはここが最初です。主イエスはここで神の国を説いています。神さまの支配を説いています。神さまは、生きて働き始めているとおっしゃっています。その主の中に突進して来てしまった。主イエスが語っている言葉のなかに飛び込んでしまう。そういう人びとの行為のなかに、イエスは信仰を発見なさいました。

     しかし、私たちがその次に聞くのは、思いがけない言葉です。「子よ、あなたの罪は赦される」。「子よ」という言葉をある人は、こんなふうに説明しました。当時の信仰の教師たちが自分の弟子と認める時にこの呼び名が用いられたのです。中風の者をイエスは「子」とお呼びになった。イエスはご自分の家にこの人を迎え入れた。小さな文章ですけれども、こころ打つ言葉を書いています。そしてご自分のふところに迎え入れたところで、あなたには罪があるので、そのあなたの罪が赦されるように、と言われた。しかし、聞いたほうはびっくりしただろうと思います。けれども、生まれながら目の不自由であった人を、人びとが誰の罪でこうなっているのかと問うた時に、主イエスは、誰の罪の結果でもないと、はっきりおっしゃいました。誰にでもある根源的な罪を問われるのです。そしてその男に言うのです。大事なのは、あなたの病よりもあなたの罪であると。その罪を明確に指摘なさって、しかもそこですぐに、赦しの宣言をなさいます。

     先ほど、創世記第18章の、アブラハムと神とのやりとりの言葉を読みました。一所懸命にアブラハムがここでしていることはどんなことでしょうか。神さまに値切っているのです。ソドムの町を滅ぼそうとする神の前に立ちはだかって、この町にたった10人の正しい者がいたら、それに免じて、この町を救っていただくというところまで持ち込んでしまうのです。笑い顔が凍りつくような思いがするのです。結局は誰も義しい人が見つからない、アブラハムの悲しみがそこにあります。「アブラハムは家に帰った」と書いてあります。しかし、どんなに深い絶望を抱いて帰ったことでしょうか。同じ嘆きを生む罪の世に、主イエスは来られました。そして和解のわざをお始めになった。アブラハムにもできないことをお始めになった。わたしが、この人びとの罪のあがないとなります、この世に神と和解した人びとの群れをつくってください、それが主イエスの最初からの祈りであり、願いでした。

     これを聴いていた人びとのなかに、律法学者もいました。この律法学者というのはおそらく、この時まで、主が語られる、新しい神の国についての教えに喜びをもって耳を傾けていたかもしれない。しかしここでは、腹を立てた。10節に、「……人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせ」る、とおっしゃっています。神さまにしかできないことがここで起こっている。それならば、ここに神が生きて働いておられるということがなぜ認められないか。主はそう問われるのです。

     以前、キリスト教幼稚園の先生方の集まりで、講演を聞きました。そこで聞いたことは、保育をするにも祈りがなければこどもの教育は成り立たないということです。第二は、何を祈るかということです。その祈りは何よりも、悔い改めであるはずだということでした。私たちは、他人のこととしてではなく、自分のこととしてこのことを深く思わざるを得ないのです。

     私たちが救いのなかへ突進するよりも、主イエスのほうがもっと激しく突き進まれた。十字架へ飛び込んでおしまいになった。主イエスは御自分の体を裂かれた。血を流された。そして神さまとの和解の道をお開きになった。「子よ」と、中風の者にイエスは呼び掛けた。この時はまだ、当時のラビたちが呼ぶようにお呼びになったかもしれないけれども、今私たちには分かる。私たちは、神の子として呼ばれているのです。私たちが罪を知るということは、神からの蔑みを受けることではありません。神がどんなに私たちを大事にしてくださっているかを知ることです。獄に捕らわれるような恥ずかしいことをしたと人びとが爪はじきするような人びとであっても、いやまさにそこで、主の罪の赦しはなお貫かれることを教会が信じないで、誰が信じるか。私たちもまた、深い思いをもって、聖餐にあずかりたいと思います。お祈りをいたします。