カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の激しさに生きる

    2018年2月11日
    詩編94:1-7、マルコ4:35-41
    関 伸子 牧師

     最近私は、竹内敏晴という人の、『時満ちくれば』という表題の本を興味深く、喜んで読みました。演劇の演出家で、〈からだ〉とご自分は言われますけれども、〈存在〉を賭けた言葉を、発する声についてまで鋭く問いながら、ご自分の理論を発展させ、またその理論を実践しておられる方です。著者は学生の時に、講演会で矢内原先生に出会い、それから40年たって矢内原忠雄の『イエス伝』を読んだのです。

     この『イエス伝』のなかで、この第4章から第5章にかけて奇跡が連続して記されている部分について、キリスト者はなぜ奇跡を信じるか、奇跡の意味はどこにあるかということを、きちんと説き明かしておられます。その中に、とても印象深い言葉があるのです。「『三つの譬え話』のあとに『四つの奇跡』。どうです! 聖書を学ぶのは面白いでしょう。しかしただ面白いだけでなく、これを自分の人生の力としなければなりません」。これは、激しい言葉です。面白さというのは、生き死にがかかっていると言っても大袈裟ではないような聖書に対する興味の持ち方です。

     ここでマルコが書いている物語は、まれに見る奇跡であったと言っていいと思います。奇跡の特色は、繰り返されないものだということです。しかし、あの時ただ一度の出来事の物語を人びとは、ここに語られているのは私たちの物語だと読んだのです。だから面白いのです。この日一日、主イエスは説教をなさった。神の国について語り続けた。その説教壇になったのは、弟子たちの舟でした。あまりに激しく群衆が岸に押し寄せていたので、舟に乗って距離を保たなければならなかった。やがて夕暮れになり、日が沈み、新しい日が来る。主イエスはそこで、群衆を帰して、このまま舟を出そうと、弟子たちに言われた。

     しかし、第5章の1節に、その地方、「向こう岸」というのはゲラサ人の地方であったと書いてあります。このゲラサ人も、ユダヤ人ではない、異邦の人たちである。つまり、別の信仰を持っていた人たちであると考えられる。だからそこにはユダヤ人が汚れたものと信じた豚が無数に登場してきます。ある人びとは、主イエスはここですでに異邦の地に舟を乗り進めておられると考える。弟子たちは緊張したと思います。今まで主イエスは話し続けられた。よし、今度はこちらの仕事だ。そう思って漕ぎ出したのでしょう。「他の舟も一緒にいた」と書いてあります。その舟の話は途中で消えてしまい、話は、激しい突風に襲われたという物語に移ります。

     夜です。夜、漁に出ることを知っている弟子たち、そしてガリラヤ湖特有というこの突風を知っている弟子たちは、いつもとはずい分違う激しさに、舟が水浸しになって、沈むのではないかという不安を抱いた。それでも、イエスは眠っておられる。「艫の方で」とあります。「艫の方」とは、そこに船頭がいつも座っている大切な所であって、そのかなめの所にイエスがおられたのだと理解する人もあります。

     主イエスは「風を叱り」、湖の水を静めたとマルコは書いています。これは第1章の25節の、主イエスが悪霊を追われた時の行為を語る言葉と同じ言葉です。凪になってからイエスは、「なぜ怖がるのか、まだ信じていないのか」とおっしゃった。まだ信仰がないから怖がったのだ、とおっしゃったのです。私たちの信仰の急所に触れる問題を指摘しているのです。

     私たちの教会は、ここで礼拝を始めてから54年目の歩みをしています。教会の歴史というのは、私たちが計画通りに造るものではありません。神は不思議なことをなさるといつも思います。そこで大切なのは、信仰を持ち続けるということです。信じるのです。その信仰がここでも弟子たちに問われているのです。

     そのように問う時、ひとつはっきり浮かび上ってくることがあります。それは、やはりここでの中心的なみ言葉は41節だということです。「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』」。ここで大切なことは、イエスとは誰かということです。この方は一体、誰なのか。私たちもまた改めて問わないわけにはいきません。

     最初にご紹介した竹内敏晴という方の書物は、最後にこういう言葉を書くのです。「何物も求めず、何物にも執着せず、ひたすらに愛すること。無生得にして不汚染であること。それを私に可能ならしめる力よ、来たりたまえ」。

     「主イエスよ、来たりたまえ」というのは、聖書の最後の祈りの言葉です。それと響き合うような祈りの言葉で、この言葉についての専門書が終わるのです。

     福音書は、私たちを訪ねてくださる主イエスを語ります。ちょうどここに「イエスは起き上がって」と書いてあるように、主イエスが死の眠りから立ち上がられて、甦りの姿を示した時、遂に弟子たちはもう、この方はどなただろうとは言わなくなるのです。私たちを訪ねられたのは、甦りの主イエスでした。そしてそのことを弟子たちは喜んだだけではない。自ら進んで、異邦の地に舟を乗り出すようにして伝道を始めたのです。そして、イエスとは誰かと語り続けたのです。イエスはあなたがたを訪ねておられると語り続け、証しし続けたのです。

     この物語は、そのような弟子たちの歩みを受け継ぐ者にとって、大きな慰めになりました。戦後、世界のキリスト教会が、世界教会協議会という大きな教会の交わりを作った時、その旗印にしたのは、この物語です。嵐のなかに船路を威光とする舟の姿を自分たちのシンボルマークにしました。初めてのことではないのです。教会は昔からそう信じてきたのです。だから私たちはここに座っています。この会衆席を昔から舟と読んだのです。シップです。ここで私たちは共に舟に乗っているのです。主イエスと共に船路を行くのです。そこで、私たちはいつの間にか、愛さなければならないという戒めに占領される。私たち自身が主の愛の奇跡にあずかり、その軌跡を喜ぶことができるようになるのです。お祈りをいたします。