カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 荒れ野に耐える

    2018年2月18日
    エレミヤ書50:8-17a、マルコ1:12-13
    関 伸子 牧師

     主イエスがいよいよ、ガリラヤで伝道をお始めになることを語る、マルコによる福音書第1章14節以下の記事に先立ち、霊に強いられて荒れ野に赴かざるを得ない主の姿が示されます。このすぐ前の11節には、神の霊が鳩のように主イエスに降って聞こえてきた神の声を記していました。12節は、「それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」、その霊がイエスを送り出した、と書くのです。この「送り出す」と訳されている言葉は、本来の意味は「強いて、無理に」、駆り立てるようにイエスを荒れ野に送ったという意味の言葉です。やがて主イエスは、十字架につけられて殺される、その時に、主イエスは血の汗を流しながら、本当はこういう死を欲しくないという祈りをなさったのです。それでも、なお強いられて十字架の死の苦しみを味わい、十字架につけられるのです。この、父なる神に強いられての主イエスの歩みがすでにここに始まり、強いられて荒れ野に送り出されるのです。

     「イエスは40日間、そこにとどまり」と記されています。この荒れ野における40日の試みは、主イエスが初めて味わわれたものではありません。イスラエルの民を導いてエジプトから脱出した指導者モーセも、荒れ地のなかの荒れた山のシナイにおいて神から10の戒めを受けました。試練のなかでモーセが山の上にいるときに、イスラエルの民は金の子牛を造って拝んだ。後に預言者エリヤが登場したとき、エリヤもまた荒れ野にあって試みを受けながら、その試みのなかで、細き神の声を聞いた。この時、イスラエルの民は、バアルの神を拝んだ。バアルの神は農業の神さまです。以前、旅行でローマを訪れた時に、国立博物館に行きましたら、そこにこのバアルの神の彫像がありました。胸の豊かな、まるで肉欲そのもののような、女神の彫像であって、それが葡萄の枝に包まれ、葡萄とひとつになっている。私はこれを見て呆然としました。モーセが経験したのも、エリヤが経験したのも、神に選ばれた民の不信仰と闘うことでした。

     主イエスは、そこでサタンから誘惑を受けられました。サタンは三つの問いを出してイエスを試した。石をパンに変えることを求め、主イエスがそれに対して、人はパンだけで生きるものではない、と聖書の言葉で答えられたことをも知るようになります。それはマタイ福音書や、ルカ福音書が書いたことです。マルコはそれを書かなかった。神の霊に強いられて荒れ野に赴かれたということが、マルコにとって大事なことであったかもしれない。しかもそこで、「その間、野獣と一緒におられた」という言葉にぶつかります。

     いったい、野獣と一緒におられたということは、どういうことなのか。特に、これは口語訳も、新共同訳も同じ訳し方ですが、「野獣と一緒におられたが」と書いてあります。「野獣と一緒におられたのだけれども」ということになると、この「けれども」という言葉のなかに、どういう意味が入ってくるのか。こう、考えることもできます。〈野獣〉というのは、人に脅威をあたえるものです。そういう野の獣と一緒にいたのですけれども、主イエスは守られておられた。天使たちが仕えていたからだ、と読むこともできます。天使がここで「仕え」る、というのは、文字通りサーヴィスです。主イエスの食卓のサーヴィスです。天使が40日間、主イエスを養った。養われてどうなさったかというと野獣と一緒にいたのです。

     私たちは、クリスマスに聞く、イザヤ書第11章の言葉を思い起こすのです。新共同訳は「平和の王」という見出しをつけて「エッサイの株から」生まれ出た王が登場するのです。その上に主の霊がとどまる、その王の裁きが始まるのです。その時に何が起こるかというと、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。…… 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる」。

     ここでは、人と獣とが和んでいる。共に生きている。主イエスの荒れ野における獣との生活は、このイザヤ書の言葉を実現しておられたのだと、そう読むことができます。さらにいえば、それは、荒れ野に造られている新しいパラダイスです。〈パラダイス〉、それは人間が失ったものです。神は天地をお創りになり、獣もお創りになった。パラダイスはそのようにして、そこに生まれたのです。ところが、悪魔が蛇の姿でやってきた。そして、神が食べてはいけないと言われた木の実を食べれば、あなたがたは神さまのように賢くなるとそそのかした。つまり、神さまなんかいらないということです。そして、エバが、アダムが、その実を食べた。人間はパラダイスから追われた。「荒れ野」は、そういう人間の罪が作り出してしまったものです。

     先ほど、エレミヤ書第50章を読みました。バビロン滅亡についての、厳しい預言の言葉です。「バビロン」、それはその後、ローマ帝国の隠れた呼び名にもなりました。そしておそらく、私たちが作っているこの世界も過ちを犯せば、たちまちバビロンの名にふさわしいものになります。神さまなんかいらないと思い、自分たちは十分に賢いのだと思い込み、自分たちが自然を含む世界を、征服できるものと信じる。そして私たちは知っている。現代の社会、すでにこれも荒れ野になってしまっているということを。主イエス・キリストがサタンの誘惑に勝った、40日間、ついに耐え抜いたということは、エバとアダムのようには負けなかったということです。もう一度サタンと闘って、勝ってくださったということです。

     マルコの思いは、このたった2節の言葉のなかによく現れてきています。この、マルコが知った確信を、後の教会が受け継ぎ、受け継いで今日に至りました。私たちもまた、私たちなりに、荒れ野のなかに出て行きたいと思います。ここは、荒れ野ではない。神がお創りになった世界です。そのことを、私たちは言葉と生活とをもって証しすることができれば、どんなに幸いなことであろうかと思います。