カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • いのちの重さを知っているか

    2018年3月4日
    出エジプト記3:11-15、マルコ8:31-9:1
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第8章31節に、「それからイエスは、人の子は……」と語り始められています。この「人の子」というのは、主イエスご自身のことであり、イエスご自身が必ず多くの苦しみを受け、殺され、3日の後に復活するということをお語りになったのです。

     マルコは、そう書いた後で、32節に、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」と改めて書きました。「はっきりと」という言葉は、公然と、誰にもわかるように、お語りになった言葉という意味で用いられているのです。

     「はっきりと」、「公然と」、「大胆に」、何をお語りになったかというと、ご自身の苦しみと死、つまり十字架の死と、それに続く甦りについてです。そのことをお語りになった後で、わたしの後について来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負って来なさいと言われました。十字架を負うのです。

     主イエスがあからさまに、ご自分の苦しみ、そして甦りについて語り始められた時、32節で、そのはっきりした言葉を聞いて、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と記されています。しかし、主イエスは、そのペトロに対して、「サタン、引き下がれ」と言われた。「引き下がれ」というのは、「わたしの後に回れ」という意味の言葉です。「わたしの導き手になるな」と言われたのです。

     中世の歴史について興味のある文章を幾つもお書きになった一橋大学の先生で、阿部謹也という方の演習に出ていて、学生たちが自分の研究テーマで報告をすると、先生がほとんど必ず尋ねることがある。それは「それで何がわかったことになるのかね」という問いだそうです。一所懸命報告したのに、「それで何がわかったのか」などと改めて問われると、学生は困ってしまうと思います。その時に、この上原先生は、「わかるということは、わかった時には、自分自身が変わるものだ」とおっしゃったというのです。これはすばらしいことです。

     主イエスがここで求めておられることもそうです。私たちのわかり方には、むしろ、わかっても、なかなか自分を変えることができないくせがあります。夫が妻に何か注意をされる。妻の言っていることは全く正しい。しかし、夫はそこでしばしば「わかったよ、うるさいな」と言うのです。そして、少しも変わりません。妻も夫に対して、同じように言います。「わかりました」。しかし、それっきり。こういうことは教師と生徒の間にも、誰との間にも起こります。

     私たちはもしかすると、真実の意味での「わかる」ということを拒否してしまうかたくなさを持ち続けているのかもしれない。阿部先生は、その書物のなかで、歴史を学んでいて何がわかって来るかと説かれます。たとえば中世において教会もまた手を貸した形で差別の社会が生まれた。それを知るとき、そこでこの先生は更に改めて知る。自分も差別する人間であることを知る。人間の弱さが生む行為だ。その弱さを自分の中に見つける。『自分の中に歴史を読む』という表題に、英語の副題がついていて、それは『自分との対話としての歴史』というのです。この方は、カトリックの教育を受けた時に生まれた問いを、ずっと持ち続けているようです。

     主イエスがペトロを「サタン」とお呼びになったのは、そのサタンになってしまった愛弟子に、わたしの後ろに廻ってご覧、そうしたら自分の中に悪魔が住んでいるのがよくわかるであろう、と改めて言われたのです。

     「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。主イエスの後について行く者は、35節で言えば、自分の命を救いたいと思わない者になる。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。わたしの後について来る者は、わたしのために自分のいのちを失う。しかしその者は、そのいのちそのものを救うのだと言われるのです。しかし、その後で「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われる。あなたのいのちは全世界に勝ることを知っているか。そう問われるのです。

     ここに用いられている「いのち」という言葉は、「魂」と訳すこともできるし、「こころ」と訳すこともできるし、最近試みられる翻訳では、「本当の自分」とも訳されるのです。聖書には、このように「いのち」と訳される言葉は、他にもあります。けれども、その「いのち」と訳される言葉の共通点は、もともと「息」という意味を持っていたということです。息をすることによって人間はいのちを保っている。息を吹き入れてあげるといのちが生まれる。神の霊もまた「神の息」なのです。

     先ほど出エジプト記第3章のイスラエルの指導者モーセの物語を読みました。ここで、モーセは最初から偉大な人物であったのではない。ひとりの捨て子でした。そのモーセを神がお選びになった。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。

     主イエスの後について行く者は、またその意味においては、主イエスに遣わされて送り出される者です。主イエスの後に一所懸命について行って、僅かでもいい、自分のいのちをどのようにして大切にするか、何がその道かということを学んだ時に、主イエスは、わたしがあなたと共にいる、さあ出かけてごらん、そう言って送り出してくださる。私たちがしているこのところにおいての礼拝は、まさにそのように主イエスの背をもう一度きちんと見直して、そこを見つめ続けて、決して、この方の前に立ってはいけないのだということをよくわきまえると共に、その方に後ろから声をかけていただいて、さあ行ってらっしゃいと呼び出され、送り出されるさいわいな時でもあるのです。お祈りをいたします。