カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • いのちの曙光

    2018年3月11日
    詩編84:1~13、マルコ9:2~13
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第9章2節以下の、いかにも不思議な神秘に満ちた出来事を書き始めるに際して、マルコは、「6日の後」という、時を刻む言葉をきちんと書きました。いつから数えて6日であるか。31節に主イエスがこのフィリポ・カイサリアの地方において、「人の子」、つまりご自分が、多くの苦しみを受けて、当時の宗教指導者たちによって殺される、そして3日目には甦るということを、「弟子たちに教え始められた」と書いています。

     この6日間と、7日目ということを考えるときに、思い起こすのは、聖書の最初に記されている神の天地創造の物語です。主イエスが、ここで6日間一所懸命にお働きになったのに似て、神も6日間熱心に働いて天地の万物をお造りになった、そして7日目に神はお休みになった。ここでも主イエスは、7日目にお休みになった。イエスは高い山に登られた。皆から離れて祈りの中に憩いを求められた。ただこの時には、3人の弟子の代表をお連れになった。ここまでは、主イエスがご自身でなさったことです。しかし、この後は、主イエスは絶えず受け身になっておられる。

     たとえば、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とありますが、これは「変えられ」という受動形の言葉です。なぜこのような出来事が起こったのでしょうか。主イエスによってなされた弟子の教育は、なかなか難しかったと思います。
     なぜこの訓練が難しいか。それは私たちのかたくなな心にも理由があると思います。ここで主イエスがお語りになったのは、ご自分が神のみこころを、ここで行って、苦しむこと、殺されることでした。しかも主イエスはその後で、あなたがたも自分のいのちを捨てることを学べ、とおっしゃったのです。

     以前、「その人の名を知らず」という、NHKの連続ドラマを三晩続けて見ました。明治の終わりから大正の初めにかけて中国における革命期があって、次々と血を流した人びとの物語です。誰が殺したかと言えば、それは何よりも政治と結びついた軍事力です。主イエスの来られた頃のユダヤの人びともまた同じ思いであったでしょう。そしてその時に、誰もが期待するのは、そういうむごい力よりも、もっと強い力を持つ者です。ところが、キリスト教会が生まれた時に語り始めた救い主の姿は、まるでそれとは違ったのです。しかも、その後の約3百年にわたって、キリストの教会は、迫害の下にあった。しかも武力を持たなかった。十字架につけられたイエスの後に自らの十字架を負ってついて行ったのです。

     ここに書かれている、主イエスの服が真っ白になってしまったとか、あるいは、モーセ、エリヤと一緒に話をしたとかいうこともまた、不思議な出来事です。先ほど詩編の第84編を読みました。ペトロの言葉を読んだ人びとが、この第84編を思い出しています。神の宮、神のみもとに住むことができれば、たった一日でも、その一日は、他のどんなところにいる千日にまさる。そのように歌いました。「これはすばらしい!」。だがここで不思議なことに、ペトロがこの言葉を語った時に、「あなたは、メシアです」と、ついさっき言ったことをペトロは忘れてしまい、主イエスをラビのひとりと思って「ラビ」と呼んだようです。この時、ペトロは正気を失っていた。正気に返らなければならなかったのだとマルコは言うのです。

     正気に返った時に、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(8節)。このとき主イエスは、エリヤとモーセと共におられました。エリヤとは旧約聖書に登場する数多くの預言者の中でも最大の人と言われており、当時のユダヤ人が、世の終わりの時が来たら、また必ず登場して来て、救いのわざを果たす者だと信じていた人です。モーセは、あの十戒を含む律法を神からいただいて、神の民に手渡してくれた人です。神の救いの歴史が、そこに現れて来ているのです。これは聖書によって告げられていたことです。

     この出来事は、弟子たちの心に深く刻みつけられて、一同が山を下りて来る。9節から13節までの記事で、私が心に留めたいと思ったのは10節です。「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」。原文の意味を生かすと、「死者の中からの復活とはどういうことかを論じながらも、この主の言葉をしっかりと持ち続けた」。ここで初めて、それまでの6日間には味わうことがないような確かな思いで、弟子たちは、甦りの光を見始めたと思います。

     ここでは、再びエリヤのことが話題になる。弟子たちは、不安を抱きつつ尋ねました。この世の信仰の権威者は、あなたを認めていません。主イエスは、それに対して、こう答えられたのです。まずエリヤが来る、その通りである。だが、そのエリヤは、もう来てしまった。この時明らかに主イエスは、洗礼者ヨハネのことを意味しておられたと、人びとは理解します。その通りでしょう。13節に、主はこう言われました。「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」。洗礼者ヨハネが来た時に、人びとは、一方ではこれを歓迎しながら、他方では、ヘロデが殺したのです。

     ペトロもヤコブもヨハネも、主イエスが十字架につけられる時、主に従って行くことができなくなった。自分のやりたいこととは違うと思ったからです。そして、イエスを捨てました。ペトロは後で後悔しました。だから主イエスは、私たちのところに、力を持ってではなく、その力の下で殺されて、かえって私たちを愛し抜く道を選んで、来てくださったのです。これは何度考えても不思議なことです。

     弟子たちといつも一緒にいてくださって、弟子たちが地上の現実にふっと気がついた時に、わたしはあなたがたと一緒にいると、ご自身の姿を見せてくださった、その主イエスが、今私たちと共にいてくださる。私たちの信仰の目をもってふり仰ぐ方として、ここにいてくださることを感謝したいと思います。