カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 自分の願いを知っているか

    2018年3月18日
    エレミヤ書17:5-14、マルコ10:35-45
    関 伸子 牧師

     マルコによる福音書第10章35節以下では、まずゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに語り始めます。このヤコブとヨハネは主に招かれてその弟子となり、その後、ずっと主イエスの伝道を一緒にして来た者たちです。そのふたりが、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」、と言うのです。

     「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。ちょうど右大臣、左大臣というのが、いちばん位の高い人の両側にいて、その権威者の権威による支配を、実際には自分が代行することができるような位置に座る。それに似た権威ある位置に座りたいのだと読むことは間違っていない。しかし、ある注解書を読んでいて、新しい発見をした。その人は、こういうふうに言うのです。主がいのちの栄光の勝利を得られた時、まず何をなさるのであろうか。お祝いの宴会をお開きになる。その祝い宴席において、「主よ、わたしたちをその右と左に座らせてください」と言ったのだと言うのです。

     それも主イエスは、いきなり拒否はしておられない。ただそれを受け止めながら、別のことを言われたのです。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。彼らが「できます」と言うと、イエスは言われた。『確かにあなたがたはわたしの飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる』」。「今」ではないのです。「これからのこと」なのです。

     この「杯」、「バプテスマ」とは、全身が水の中に入ることを意味します。水の中に潜るバプテスマというのは、ある苦しみに耐えて、その中に全身を没してしまうことを意味したと考えられたのです。次に杯。杯もまた、最初に与えられたときには勇気が要ります。この後主イエスがゲッセマネで祈りをなさった時に、神に、本当はこの杯は飲みたくありません、しかし、あなたが飲めとおっしゃるなら飲みますと言われた苦難の杯。もしそのようにすることができるならば、とまず言われ、ご自分と共に歩むことを求められたのです。

     もうひとつここで大切なこと、それは、そうだからといって、「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」とも言われたことです。なぜかというと、それは、定められた人びと、神がお選びになった人びとに与えられるものであって、自分が決めるものではないからであると言われたのです。

     今、説教で説き明かされているマルコによる福音書は、主イエスに従う生活を求めている。家庭の主婦であろうが、学生であろうが、会社に勤めている者であろうが、皆同じです。牧師だけではない。主イエスに従っている者として自分の生活を作る。それは自分を殺すことでもないし、自分を無視することでもない。主イエスは、自分を大切にしてくださる。そのことを忘れてはならないのです。

     主は、ご自分が飲む杯、バプテスマを語られたのちに、45節に言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。この弟子たちは、主イエスに対する信頼をもって願いを述べましたけれども、主についての根本的な知識が欠けていたのです。

     先ほどエレミヤ書の言葉を読みましたけれども、その第17章9節、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」、この言葉ひとつ読んでも私たちの胸は痛みます。今自分に与えられている生活、家族との生活、学校に行くことを許されている生活、職場で働くことを許されている生活を、いろいろ文句を言いたいことはあるかもしれないけれども、まず喜んで受け入れるところから始まる。なぜか。そういう自分を主イエスがあがなっていてくださるのですから。

     主が愛していてくださる自分を愛さないことは罪の始まりです。先ほどのエレミヤ書は一応13節で区切られていたようですけれども、14節まで読まないわけにいかなかった。神を賛えて生きるように癒された自分を大切にするところから、私たちの生活は始まる。そしてそこで主イエスに従って行く道を習い覚えるのです。

     さてそこで、42節で、主イエスとふたりの弟子とのやりとりを聞いていて、他の弟子たちが先を越して優先の席を確保しようとしたふたりに腹を立てた。そこで主イエスはこう言われたのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。偉くなると言う言葉は原文では「大きい」ということです。大きな存在でなければいけない。けれどもその支配は、すべての人の僕になることによってのみ貫かれる。

     せせらぎ会という、キリスト者の身体障がいを持っておられる方たちのグループの機関紙「せせらぎ」というパンフレットがあります。その編集責任に当たっておられたのは詩人の島崎光正さんです。修養会をして、島崎先生が語られた言葉が記されていました。「自分たちが帰らなくてはならない原点に、いつでも戻っていかなければいけない。それはどこかというと、障がいがある者も、高齢の者も若い者も、皆それぞれに持っているタラントを生かすこと、そして神と人とに仕えること」。これは何でもない言葉のようですけれども、私はすばらしい言葉だと思いました。

     体に痛みを持っている者は、人に喜んで仕えてもらう。僅かな奉仕でも喜んで受け入れながら、下手は下手なりに人に仕えていくことを喜びとする。これはすばらしい恵みの事実です。その時には皆さんが大きくなるのです。皆が仕えて、皆が愛をもって、人に喜んでいただく道を生きることができるようになるのです。そこでも主が私たちの愚かな歩みを、愛においても過ちを犯す歩みを、いつも赦しながら、支え慰めていてくださるに違いありません。お祈りをいたします。