カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 心燃える祈り

    2018年3月25日
    ヨナ書4:1-11、マルコ14:32-42
    関 伸子 牧師

     ゲッセマネの名は、私たちにとってとても親しいものです。しかし、この所の名を挙げてそれから語り始めるマルコ福音書の記述は、何度読んでも、私たちにとって慣れた言葉とはなりにくいのではないでしょうか。イザヤ書第53章に、〈苦しみの僕〉についての預言が記されていますが、その預言の言葉を書き始めるところ、第52章の終わりに近く、この僕の姿を見て「王たちもまた口を閉ざす」とあります。「だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ」というのです。それに似た思いがあります。

     33節に、「イエスはひどく恐れてもだえ始め」と記されています。「もだえる」と訳されている言葉は、あるひとの説明によると、「民衆から切り離されている」という意味の言葉です。周りを見廻しても誰も助けてくれない。従って、ここでも、むしろ「不安を抱く」と訳している翻訳が多いのです。

     「わたしは死ぬばかりに悲しい」とイエスは言われました。この言葉を読んだときに多くの人が思い起こしたのは、ヨナ書が伝える預言者ヨナのことです。ヨナは意気地なしで、ニネベの町に行けと言われて逃げ出した預言者です。

     自分の命が暑さに耐えられないと言って呻き、いっそ死んでしまいたいなどと怒りに燃えるけれども、ニネベの町の人びとの罪と滅びのためにどれだけ悩んだことがあるか。しかも、無数の家畜がいるとまで神は言われました。このような、神が一所懸命になってヨナに教えられたニネベのための悲しみの戦いを、罪の世界のための神の悲しみの戦いを、主イエスはここではっきりと受け止めておられたから、ヨナよりももっと深いところで、死にたいほど悲しいのだとおっしゃったのです。

     しかもこの時、誰の助けも求められないような孤独の中にありながら、もう一度33節に戻ると、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」とマルコは書いています。マルコによる福音書は、これまでにもこの3名の弟子が立ち会った大切な場面があったことをはっきり記録しています。ひとつは第5章で会堂長ヤイロの家においてです。もうひとつは第9章です。主イエスが、やはりこの3人の弟子だけを連れた山の上にあった時に、その衣が突然真っ白に光輝いて天からの声があった。

     ところで、このゲッセマネの園においては、主イエスの衣が光り輝いたわけではない。主は、何を目撃してほしかったのでしょうか。明らかにひとつは「祈り」です。「目を覚まして祈っていなさい」、神にすべてを明け渡す祈りです。

     しかもここで、もうひとつ心に留めておきたいことがあります。主イエスはここで、「心は燃えても、肉体は弱い」と弟子たちに言われました。この「心は燃える」という言葉の言語であるギリシア語には、情熱という意味の言葉が含まれているのです。ひとつとても大事なことがあります。その情熱が前に向かう、と書かれているのです。すべてを前に傾けてどうするのか。命令を待っているのです。しかし、肉体は弱い。そのために備えが崩れて行くのです。

     主イエスは前進を始められる。「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。「わたしを裏切る者」というのは、「わたしを渡す者」と言う言葉です。わたしを敵の手に渡してしまう者が来た。渡されるためにわたしは今行くというのです。こうして裁きが始まり、十字架の死に至る道に主イエスは踏み込んで行かれる。遂に決断なさったのです。

     35節に、「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と記されていますが、原文には「苦しみ」という言葉はありません。ただ、「この時」とだけ記されている。〈決定的な時〉ということです。だから「この時」とは、ただひとりの人が十字架の上で苦しむということよりも、神がみわざをなさる、その時が来ているということです。

     アメリカに住む友人のお孫さんが、14歳で発病して癌になった。もう治らないということがはっきりした。どうしても治らないことがわかって、やがて最後の日が来た。主治医も最後の苦しみ、痛みが気になったようです。そこでお母さんに、息子に尋ねてもらいました。痛みを和らげる注射を売ってもらうつもりはないかと。その子は注射はいやだと言いました。そしてこう言ったそうです。今、主イエスの復活にあずかろうとしている人間が、その最も大切なときに、なぜ意識を失わなければならないのか、と。やがて、彼が静かに言ったそうです。「今、神が僕に何かをしようとしていてくださる。そのことを思うとぼくはわくわくするよ」。それが最後の言葉になったそうです。その時以来、両親は、どんなことがあっても絶望することはなくなった。いつも望みに生きることができるようになった。その方は目を潤ませながら、でもうれしそうに、誇らしげに孫の話をしてくれたのです。

     「心が燃える」、心が備えている、死に際してもう終わりというのではなくて、まだ前向きに向かっている信仰の少年の心がそこにはっきり現れている。その方は言うのです。どんなに厳しい状況にあっても、信仰を持っている人間、キリストの復活を信じている人間というのは、望みを失うことはありません。そのことをわたしたちは孫に教わった。自分の楽しみは、やがて仕事も辞めて教会のお務めだけに献身できる日が来ることだ。あっけにとられるほどの素朴な信仰と言えば言えると思います。しかし、私はそれが本当だという思いがするのです。

     主イエスがゲッセマネで、私たちの誰がそばにいたって眠りこけてしまったかもしれないような人間の罪があらわになる状況の中で、ひとり目覚めて祈り続けられたときに、遂に拓いてくださった道が、まさにそのようなものであったのです。主イエス・キリストがどんなに深く私たちを愛し、わたしたちが生きている世界を愛されたか、心に深く留めたいと願うのです。お祈りいたします。