カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたも死に勝てる

    2018年4月1日
    サムエル下23:1-5、マルコ16:1-8
    関 伸子 牧師 

     マルコによる福音書を読むときに、第16章を読んで読み始めるということを聞いたことがあります。この福音書を理解するためにとても大切なことであるかもしれません。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという三人の女性が、またここに登場します。この三人は主イエスのからだに油を塗りたいと思って香料を買って用意しておきました。特別な思いを込めてのことのようです。

     なぜここでそうしたのだろうか。おそらくここに既にマグダラのマリアたちの思いが込められていると思います。第14章に記されていたことですが、まだ主イエスが十字架につけられる前に、ベタニアの村においてひとりの女が、自分が大切にして来た香油の壺を割ってその香油を全部注ぎ、主イエスのからだを清めるということがありました。弟子たちは無駄なことをすると言ってこれをなじったのに、主イエスは、この女はわたしにいちばんよいことを、もっとも美しいことをしてくれた、この女のしたことはいつまでも世界で覚えられることであろうと、そう言われました。マグダラのマリアたちも、このことを現場で見ていたかもしれません。おそらく、強烈な印象であったでしょう。

     この女たちは、主イエスの伝道の旅の間、食事を用意し、洗濯をし、身のまわりの世話をしていた人たちですから、その体に対する愛着は強かったと思います。そしてその女たちがやって来て石が脇へ転がしてあるのを驚きながら中に入ると、そこで若者がこう語った。6節です。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたとナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない」。ここに「十字架につけられたナザレのイエス」という言葉が出てきます。これは聖書の表現の中で最も大切な表現のひとつです。「ナザレのイエス」というのは、ああ、あの「十字架につけられた」あの男かということです。しかし、この福音書はもうひとつ知っていました。その体はここにはない、ということです。

     たとえばわたしたちの教会にも富士霊園に共同墓地があります。その墓地のひとつが空になってしまった、そこにもうあの人はいない、と言えるようなことが起こったのです。そこで、ああ、あのナザレのイエスそのものが甦られた、この体を持って甦られた。そのような信仰によって、マルコによる福音書は書かれたのです。だからマルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉を最初に書きました。それは言い換えれば、わたしが書くのは甦られた神の子である方がナザレのイエスとして肉体をもって歩まれた、その事実であるということです。マルコによる福音書は、その最初から復活の信仰が無い者には読んでもよくわからないところがあったと言わなければなりません。その意味で、この箇所を最初に読んで、ここに戻って来るのはすばらしいことでしょう。

     今日は8節までを読みました。そしてここでいわば初めに戻ったような言い方をしたのです。初めに戻って終わりに至り、終わりに至って初めに戻ったようなものですが、しかし実際には8節まででこのマルコによる福音書の記事は終わっていない。9節以下があるのです。ただし、この9節以下はマルコが書いた福音書、そう信じられているものに本来含まれていなかったと思われるということです。

     ここには結びがない。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失って恐怖に捕らえられていた。どう表現していいのかわからないような状態で婦人たちに、ペトロや他の弟子たちにこう言いなさいと命じられたことまで伝えるのを忘れて飛んで帰ってしまったと読むことができます。

     なぜそうだったのだろうか。ひとつ明らかなことに、思いがけないことにぶつかると人は恐れるものです。特に不用意にある人の前に出て、その人が思いがけない知恵をちらりと見せたり、力をさっと見せたりすると、恐れてしまって口もきけなくなるということがあります。しかし、ここでは、そうしたある人間的な重いもの、尊いものにぶつかったことにまさり、それを遥かに越える神そのものの現実にぶつかったのです。言ってみればそれは、死の向こう側に突き抜けるということです。これは、確かに恐ろしいことだと思います。

     そして、そのように人間としては想像もつかなかったこと、これが主イエスの「救いの出来事」なのでした。「神の子イエス・キリストの福音」というのは、そういう恐れを呼び起こすようなものであったのです。

     これもある説教者が語っていることですけれども、マルコはこの8節で終えた。なぜ終えたのか。わたしたちに考えてもらいたいと思っているのだ。女たちは逃げてしまった、恐れに満ちて逃げてしまった。さてそれからどうなったか、わたしたちは知っている。甦られたイエスは、このわたしと一緒にいてくださる。ペトロと弟子たちは明らかに罪を犯して、不信仰なままに、軽薄な思いのままに、故郷に走り帰ったかもしれない。けれども主イエスの恵みはそこで弟子たちをしっかり受け止めるのです。そして、わたしはあなたがたのために甦ったのだと言われるのです。

     福音書は何度も書いている。甦られたイエスが、弟子たちと一緒に何をいちばん楽しみになさったか。食事です。どこかでこのマグダラのマリアたちも、また食事のサーヴィスをすることができたのでうれしくてしょうがなかったでしょう。そのようにしてお世話することができる喜びに溢れたと私は思うのです。そして今わたしたちも、その主の甦りを祝う食卓にあずかるのです。

     ここでこのいのちの食卓にあずかり、永遠のいのちをいただきながら、地上のいのちを終えた者たちは、もうここにはいない。けれども、わたしたちはその人たちのことを確かな望みをもって思い起こすことができる。こんなにさいわいなことはないと思います。お祈りをいたします。