カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 平安が生む使命感

    2018年4月8日
    創世記2:4b-9、ヨハネ20:19-23
    関 伸子 牧師

     ヨハネによる福音書第20章の19節から23節までは、ヨハネによる福音書における聖霊降臨と呼ばれることがあります。それだけでなくて、主イエスが聖霊降臨日の出来事に先立って弟子たちに、いわばその備えのためにもその霊を注いでくださった物語は4つの福音書の中で、ここだけに記されているとみることもできます。

     その主イエスのなさり方を、22節では、「息を吹きかけられて」と記しています。ヘブライ語でもギリシア語でも同じことですが、「息」、「風」、あるいは「空気」、そして「霊」また「いのち」と訳すことが出来る言葉である。人が息をしているときにはいのちがあり、息絶えると死ぬ。その息は口から出る。私たちの周りに漂っている空気と同じような、目に見えないものだけれども、動いていて、それは私たちにも分かるし、それが私たちをも生かす。しかし、この〈いのち〉は、肉体のいのちとはどうも少し違うようである。霊的ないのちと考えられる。

     先ほど、創世記2章が伝える、神が人をどのように造ってくださったかという記事を読みました。土くれ、アダマとヘブライ語で呼ばれるものから、人間、アダムをお造りになった。しかしそれはただ土をこねてお造りになっただけではなくて、ご自分のいのちの息を神が吹き込んでくださったことによる。私たちは、それほどに尊いいのちを生きている。ちょうど、それと重なるように、弟子たちを新しい人間として造られるために、主イエスは息を吹きかけてくださいました。甦られた主のいのちの息です。地上におられた間の主イエスを生かしていた神のいのちの息、死を突き抜けて、甦られておられる、主イエスの中に宿っておられる神のいのちの息を吹きかけてくださいました。弟子たちのいのちとしてくださいました。

     雨宮慧司祭が『主の日の福音』という3巻の書物を出しておられます。ヨハネによる福音書について雨宮先生が書いておられると、ほとんどそれを参照します。「イエスの吹きかける霊によって変えられ、心臓の鼓動の有無とは別のいのちを与えられる」。すばらしい言葉だと心を動かされました。そして、その後に、もうひとつ付け加えられたことがある。それは「だからこそわれわれは、ヨハネによる福音書が第15章13節に書き記している主の言葉、『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』というみ言葉を生きることができる」という言葉です。

     私はさすがカトリックの神父だと思いました。結婚もせず、報酬も求めず、その意味では、私たちプロテスタントの牧師よりも、もっとはっきりした形で献身者として生きておられる方が、このイエスの霊のいのちを与えられたとき、いつでも、友のために死ねる愛に生きられることだとすぐに断言なさったのです。もちろん、だから自分も友のためにいのちをすれられると言っておられるのです。

     ヨハネ福音書の第14章も、主イエス・キリストは霊を与える約束をしてくださっているそのところで、繰り返し、この愛の戒めをあなたがたは、そこでこそ実行できると告げておられます。まさにそれ故に教会は、その歴史始まって以来、愛のわざにおいて怠けることはなかった。怠けたときには、神は絶えずその教会の怠慢を審き、愛を新しくしてくださいました。そのために、霊を注いでくださいました。

     しかし、この第20章においては、この「聖霊を受けなさい」という言葉に続いて、こう言われました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。

     罪を犯しても、主イエス・キリストのもとに帰ってくればいい。その赦しがあなたがたに与えられる。しかし、ここで改めて問わなければならないのは、いったい罪とは何か、ということです。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。その日の朝のことです。主イエスが墓の中におられない。しかも、誰かが奪ったわけでもない。主イエスご自身が墓から出られたことをマグダラのマリアが伝えました。しかも、その主に声をかけられた物語までしてくれました。ここに弟子たちが集まっていますけれども、この弟子たちの中にいるペトロも、もうひとりの弟子も、既に空の墓を訪ねてきているのです。18節までの記事によれば、このふたりの弟子は、それぞれ自分の家に帰っていたらしい。しかし、この時、弟子たちはひとつの家に集まっていました。独りで自分の家にいるのは心細くて仕方がなかったのかもしれません。主イエスが甦えられたという話を聞きながら、しかし、戸を閉ざして鍵をかけていた。

     この戸を閉ざしている弟子たちの姿に、心を閉ざしている人を読み取ることは間違いではない。私たちにも身に覚えがある。腹を立てる、悲しみに打ちひしがれる、疑いにさいなまれる、恐れを抱く、いずれのときにも、もし、自分の部屋があるさいわいな者は、そこに閉じこもってぴじゃっと戸を閉ざしてしまいます。鍵があれば鍵を掛けます。弟子たちの心の中に、ユダヤ人に対する恐れがあったと記されています。自分の心臓の鼓動が断ち切られるのではないかという恐れが満ちているところで、いつも神は、人間を訪ねてくださるときにはこうなさるのだと言って、われわれの真ん中に立ってくださる主イエスの姿を指し示します。

     そして、主イエスは平和を告げてくださいます。「あなたがたに平和があるように」ということ言葉は、本来ユダヤ人の普通の挨拶の言葉です。「平和を!」という言葉を交わし合うのです。

     どうぞ主の息を受け入れていただきたい。そして、自分の罪は赦されているのだと確信していただきたい。まだ扉に鍵を掛けようと思っておられる方は、その鍵を捨てていただきたい。主に対して心を開き、お互いに心を開き、そして家に帰っては家族に心を開き、共に生きる人びとに心を開いて、主の霊を悲しませることのない日々を生きていただきたい。お祈りをいたします。