カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたを知る羊飼いイエス

    2018年4月15日
    エゼキエル34:23-31、ヨハネ10:7-21
    関 伸子 牧師

     ヨハネによる福音書第10章の1節以下に、羊の囲いという言葉が記されています。この1節の羊の囲いはユダヤ人が入れられる囲いのことです。

     先ほど第10章の背景にあると考えられているエゼキエル書の第34章を読みましたけれども、ダビデはユダヤ人の王であり、ダビデの再来と考えられていた救い主も、結局はユダヤ人の救いをもたらす者であると人びとは考えた。しかし、クリスマスにまさにダビデの子孫から生まれてくださった主イエスがもたらしてくださった救いは、その旧約聖書の多く言葉が語っている枠を打ち破っている。それで私たちも招かれたのです。

     昨年の夏、アジア青年交流会でたくさんの若者が代々木オリンピックセンターに集まりました。さまざまな人種に本来属していた人びとが同じ教会に生きている、その人びとと一緒に一つの信仰を分かち合うことができた。これはとても大きな体験であったと思います。あるいは昨年12月に0422市民クリスマスというのが行われて、小金井・三鷹・吉祥寺にこんなにたくさん教会がある。一所に集まった方たちが、今私たちと同じようにみ言葉に聴き、祈っているのです。みんな囲いの外であった人びとが今は囲いの中に入れられているのです。

     しかも主イエスはこの第16章において、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」とおっしゃっています。

     主イエスは「その羊をも導かなければならない」とここで言われました。「必ずその羊をも導くことになっている」と訳して差し支えないことです。18節の終わりに、「わたしが父から受けた掟」という言葉がありますけれども、この「掟」の内容がこれだと言ってよいのです。主イエスが私たちを救ってくださり、そのひとりひとりの羊飼いになってくださるというのは、主イエスの父なる神の定められたことで、神がそのように欲していてくださるし、そうなるように定めてくださったのです。

     そしてそのようにして神のみ心によって主イエスが働いてくださって囲いの中に更に導かれている羊たちは、「その羊もわたしの声を聞き分ける」と語られています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。ここは分かる。「知っている」という言葉は聖書においては「愛する」ということと同じことを意味する。先を読むと、「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。主イエスがいのちを捨てていてくださる。そしてその交わりの中に生きている人間のひとつの特質は、羊飼いの声が聞き分けられるということです。

     主イエスがここで、「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言ってくださるのは、そのような私たちに対する信頼を語っておられることであると思います。

     この主イエスの言葉を聴きながら19節以下を読むと、こんなことが語られています。「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼のいう事に耳を貸すのか』」。驚くべきことにこの主イエスの言葉を聴いて、これが悪魔の声だと言った人たちがいるのです。悪魔の声が私たちの心を占領することがある。そして私たちは主イエスの信頼を裏切ることが起こる。

     主イエスは私たちを信頼していてくださる。あなたがたはわたしの声を聞き分けることができるはずだ。わたしはそのためにいのちを捨てている。そのように、このご自分のいのちについて語っておられる言葉に、もう一度注意しなければなければないと思います。17節から読むと、こう記されています。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない」。主イエスがここで言うのは、わたしはいのちを奪われることはない、自分がいのちを捨てるのだということです。

     このヨハネによる福音書の主イエスの死に至る道を辿ると、ふたつの箇所の言葉を、私たちなりに聴いておきたいと思います。まず第18章の4節、そして6節です。「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた……」。イエスが「わたしである」と、実に激しい言葉で名乗りをあげられた。人びとは倒れた。主イエスは犯罪者のごとく追い詰められて手を上げて、無力なままに捕らえられたのではないのです。「イエスは、自分の十字架を負い」、何気ない表現ですけれども、自分が十字架を負ったのであって負わされたのではない。すべて主イエスの自由な力ある行為であったのです。第10章18節で、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と言われた。この「できる」という言葉は、権威を意味する言葉であり、自由を意味する言葉である。主イエスは私たちと同じではない。主イエスはまことに〈力溢れる主〉であられた。だからこそ〈真実に自由にへりくだること〉がおできになった。

     最後に先ほど読んだエゼキエル書の最後の言葉を私たちに与えられた思いを越えるほどの約束の言葉として読みたいと思います。エゼキエル書第34章30節から読みます。「そのとき、彼らはわたしが彼らとともにいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」。30節で語るわが民イスラエルの家が世界を覆う大きな家に帰られたこと、それは繰り返し私たちが確認したところです。ここで神は言われるのです。「お前は人間である」。私たちは人間です。神に造られた人間です。愛されている人間です。美しいものです。尊いものです。そう神が言ってくださるのです。そして言われます。「わたしはお前たちの神」。この神を知る喜びに生きたいと願います。
    お祈りをいたします。