カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 人生の目的は何か

    2018年4月29日
    ホセア書10:1~10、ヨハネ15:1~10
    関 伸子 牧師

     私が記憶している物語がひとつあります。40年以上前に亡くなられたゴルヴィツァーという神学者、信仰者また説教者として、戦後のドイツのキリスト者にとって貴重な存在でした。この方はナチが勢力を握っていた時、ヒトラーに抵抗した牧師のひとりです。ヒトラー政権は、もてあますほどの抵抗力ある牧師たちを将校にして戦線に送るという方法を取りました。ゴルヴァイザーも東部戦線でソ連軍の捕虜となりシベリアに送られ、捕囚生活をするようになりました。この頃のことを書いた手紙を、「行きたくないところへ連れて行かれる」という表題で発表しました。

     その手記のなかで、この第15章のみ言葉が引用されます。『ローズンゲン(日々の聖句)』を戦線に持って行った。1945年5月14日に与えられていた旧約聖書の言葉は詩編第1編3節、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。

     収容所の生活が始まったばかりです。そこでこのみ言葉を読むのです。この詩編も「実を結ぶ人生」を歌います。自分たちの監視をするロシアの兵隊たちは、われわれに言う、「君たちはもう故郷に帰ればしないよ」と。そこで、このみ言葉を辿って行った。そして最後に現れたのが、このヨハネによる福音書第15章5節の言葉であった。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。この主の言葉は命令形ではない。「実を結べ」とは言われなかった。「豊かに実を結ぶ」と言われただけである。シベリアでも実を結ぶことができる。考えてみれば、ここにも人間たちがいる。愛すべき人たちがいる。もう故郷に帰ることはできないかもしれない。すべては詩編が言うように、真実の水のほとりに根を下ろすことができるかどうかに懸かる。み言葉の流れはどこでも流れている。み言葉をもって何にもまさる強さをもって主は今私たちに語りかけていてくださる。

     よく皆さんは礼拝に来られると思います。今日一日ぐらい休んでもいいではないか、周りの人たちはいぶかるでしょう。なぜ一所懸命に出かけて行くのだろうか。

     私たちは、ここでこそ「実を結ぶ」生活をしているのです。家庭でも職場でも学校でも実を結ぶことができるでしょう。しかし、その実を結ぶために、最も大切なことを今ここで生きている。最もいのちに輝いている。ぶどうの枝の本領を発揮している。主イエスはここに生きておられる。その主イエス・キリストの血の流れが私たちに伝わってくるような体験をしています。
     それだけに、この主イエスのいのちをいただいて私たちが改めて問わなければならないことがあります。それは「実を結ぶ」ということはどういうことかということです。特に8節、私たちが豊かに実を結ぶとき何が起こるかというと、そこで神が〈栄光〉を受けられるというのです。

     このところについて、ジュネーブの改革者カルヴァンが、こういう言葉をその『ヨハネ福音書注解』に書き記しています。「実を結ぶ」ということは言うまでもなく、神が求めておられる善いことをすることだと、まず言い、その善を行う欲望がわれわれの中に生まれるのであると明言しています。私たちにとっていちばん大切なことは、神が栄光を受けてくださることです。
     カルヴァンがジュネーブの教会のために書いた『ジュネーブ教会信仰問答』の問一はよく知られているものです。「人生の主たる目的は何か。神を知ることである」。別の言葉で言うと、あなたの人生には実りがありましたか、と問われるのです。何と答えたらよいでしょうか。
    先ほど、ホセア書第10章1節以下を読みました。このような実の結び方もあるのです。実を結ぶについれて罪を犯す神の民の姿は、私たちにとっても決して無縁のものではないのです。

     しかし、だからと言って神の民が滅ぼされてはならない。だからわたしはまことのぶどうの木として今ここに新しく根を下ろすと言われるのです。そしてその偽りのぶどう園に生きてしまった血を引いているペトロたちに対して、あなたがたはわたしにつながっていれば実を結ぶのだと、新しい道を示してくださいました。

     私たちが主イエスの真似をする姿を、9節、10節では主イエスはこういうふうに言い表していてくださいます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。わたしの愛の中に生き切るがよいと言われたのです。

     カルヴァンはここで特に10節について、もしわたしたちが天使のような聖さや純潔さを授けられていなければ、神の子の愛も無駄だということになるのではないかと問うています。私たちは天使ではない。いつも私たちの愛には混じり物が入ってしまう。そこで忘れてはならないことがある。それは「イエス・キリストの最も重要な事柄、すなわち〈義の無償の転嫁〉を除外」しないということです。

     この「転嫁」という言葉は、私たちはどちらかというと悪い意味で使います。しかし、主イエス・キリストがしてくださったのは、自分の義を私たちになすり付けてくださったということです。私たちに義を映してくださった。

     私たちが主の弟子であり得るのは、主イエス・キリストの義を私たちに転嫁していただいていることを確認することから始まります。そのようにして私たちはイエス・キリストのものとなり切ることができます。その時に私たちは弱さにもかかわらず、欠けにもかかわらず、キリストのようになりたいと心から願うことができます。そうせずにおれなくなります。それにまさる私たちの生きがいはないのです。