カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 奪われない喜び

    2018年5月6日
    イザヤ書26:12~19、ヨハネ16:16~24
    関 伸子 牧師

     私たちの国でも、ずいぶん多くの外国から来た宣教師がよい働きをしてくださいましたが、その中に、英国の宣教師バックストンという方がおられます。この先生は英国教会、日本で言うと聖公会に属する牧師でしたが、実際には日本伝道隊というのを組織し、その指導者として一所懸命に伝道に励んだ人として知られています。最初に伝道したのは、山陰の松江の地です。日本の各地域のなかでも、山陰地方は際立って伝道が難しいところということです。しかしバックストン先生は、この山陰の地で、たいへん豊かな実りを与えらえた人です。この先生の働きから生まれている教派のひとつは、日本イエス・キリスト教団と呼ばれるものです。

     私たちがよく知っている賛美歌280番「馬槽のなかに」、その他、すぐれた賛美歌を作り、大きな働きをした由木康先生は、日本伝道隊に属した牧師の養子となられたこともあり、このバックストン先生の下で育った人です。

     このバックストンの残した書物のひとつに『ヨハネ伝講義』というのがあります。1897年に、この先生は松江の教会で週2回の聖書講義をしておられます。この講義を日本の信徒たちが筆記して、書物にしたのです。明らかに、外国人の日本語です。しかし、バックストン先生になったつもりで声に出して読んでいると、たいへん心を動かされます。たとえば、この16節以下の文章を読んでみます。

     「主はなお明らかに、弟子たちに御自分を示したまいとうございます。またなおなお、親しき交わりを与えたまいとうございます。どうしてこの恵みを与うることができますか。ただしばらく弟子たちを去ることによって、新しき悟りを与えたもうことができます。今まで弟子たちは肉によりて主を知りました。それは幸福でした。けれども主は一歩を進めて、霊によりて御自分を知ることを得させたまいとうございます。その時に弟子たちは、女が子を産まんとするほどの苦痛があります。けれどもその結果は限りなき溢れるほどの喜楽であります……」。
     不思議な日本語ですけれども、しかし、私はこれを声に出して読んでいると、バックストン先生が体を乗り出すようにして、この言葉を一所懸命に語りかけている、そういう姿を思い浮かべることができます。

     この16節以下のヨハネの書き方には、明らかに、少しくどいと思うところがあります。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」。この主イエスのお言葉は、17節、そして19節と、3度も繰り返されます。

     原文がギリシア語は、ミクロンという言葉が用いられている。ミクロの世界というような言葉は、私たちのよく知っているところです。ごく小さい、微小のものの世界です。もともとのギリシア語の意味が、短い時の流れ、あるいは距離を示していると理解することができます。

     もうすぐに、あなたがたはわたしを見なくなる。わたしは十字架にかけられて殺されて墓の中に入れられて姿を消してしまう。それは今すぐ起こる。だが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。このようにミクロンという言葉を使いわけられました。

     私たちは、毎週主の日の礼拝を続けています。かつては、この礼拝の場所に一所懸命に来られた方たちがある。ここに来ることができなくなった方たちが、私たちがここで知る喜びの輪から落ちてしまったのか。しかし、そこで、この主イエス、別れはしばらくの間のことだと告げてくださるみ言葉を聞くのです。時間というのは、私たちの心の持ちようでずいぶん長くなったり、短くなったりするものです。つらいときは時間は長い。痛みが始まったら、これはいつまで続くのかと思う。主イエスは、それが短いのだと言われるのです。

     しかも悲しみが喜びに変わる、ということをたいへん具体的な例で語られます。21節に「女は子供を産むとき」と語り始められました。主イエスは、ここで21節に、「一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」とまで言っておられます。私の身近な者のひとりが、こどもを何人か与えられた後にこう言いました。つわりのつらさとこどもを産むときの痛みを思うと、もう産みたくない。けれどもこどもを育てる喜びは味わいたい。苦痛を忘れてはいないのです。だが、主イエスは苦痛を忘れさせてくださるのです。主イエスも、私たちを新しい神の子として産み出すために、十字架の苦しみの中に立ってくださった。これは母が子を産むにまさる、深い苦しみの時であった。痛みであった。主イエスも、また我を忘れて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。しかし、今は、その苦しみを忘れる時がくると、そう言われる。

     ここで「しばらくすると」という言葉が大切な働きをしています。この「しばらく」という言葉が語られるのは、ここで初めてというのではありません。ひとつ、たいへん印象深い言葉として語られていたのは、同じ主イエスの別れの言葉に属する第14章の19節です。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。

     それは、何よりも教会の群れにおいてということでしょう。奏楽に合わせて賛美をしながら、私たちは、主は生きておられるという賛美を新しくすることができます。そして、そこで主は言われるのです。だから、あなたがたも生きる。悲しみの中でも生きる。その時その悲しみ、つらさは喜びに変わる。愛されていることを知る喜びがあふれる。苦しみが、痛みが、喜びに変えられる。そこで主イエスの手によって変えられることを知っているからです。それが私たち、すべての者に与えられている祝福です。お祈りをいたします。