カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主はわたしたちのために祈る

    2018年5月13日
    イザヤ30:15~26、ヨハネ17:6~19
    関 伸子牧師

     今日、私たちに与えられたみ言葉として聴いているヨハネによる福音書第17章は、主イエスの祈りの言葉だけれども、それを弟子たちが、まるで電話口で誰かが話しているのを傍らで聴く者のように、傍らにあって聴くことが許さたのでしょう。そのおかげで、私たちもまた主の祈りの言葉を聞くことが許されるのです。

     今朝私たちが聴いている言葉の中に「彼ら」という言葉が何度も出てきます。主イエスが、これまで「あなたがた」と呼びかけておられた人びと、その「彼ら」、それは主イエスが、その足を洗ってくださりながら、あなたがたも、このように足を洗い合う交わりを造るように、と言われた者たちです。ここに、この弟子たちに始まり、この弟子たちが、主イエスにしていただいた、みわざを自分たちも続けてまねて、兄弟たちの足を洗うようになり、そこにキリストの教会が生まれてきました。今でも主イエス・キリストの手作りの教会が、今ここでも生きているのです。

     私が日本聖書神学校で学んでいた時に、神学校にいる間に、伝道者として養成を受けているときから、ぜひ身につけてほしいこと、それは、教会の〈底辺に立つ〉ということである。教会の底辺に立って生きることを体得してもらいたいと言われた教授がありました。もともと底辺というのは、底ですから見えません。底まで見抜く目が必要です。そして見えるところまで降りなければなりません。底辺とはまさに主イエス・キリストがおられ、働いておられるところにほかならないのです。

     しかし、底辺に立つということは、何も伝道者、牧師だけの課題だとは思いません。信仰に生きるということが教会に生きることであるならば、その教会のどこに生きるかというと、底辺に生きることを学ぶのです。そして、教会の底辺に生きることが分かると、家族と一緒に生きているときにも、職場で、学校で、そこで人びとと共に生きるときにも、その底に立って、隣人に仕え、これを支えるということがどういうことであるかが分かるようになるでしょう。底辺は見えない、と言いましたけれども、私たちは見えるようになるひとつの方法を知っています。それは主イエス・キリストを見つめるということです。

     11節に、こういう祈りの言葉があります。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。この主の祈りに応えて父なる神が守ってくださるところで、教会は生き始めた。この後すぐに主イエスを見失いましたけれども、しかしなお、ひとつの群れとして生き抜くことができました。父なる神のみ手が守ってくださったからです。先ほどイザヤ書の第30章にありましたように、人間とうのは、愚かさに愚かさを重ねて生きた。神の民もまた過ちを繰り返し、そのために傷ついた。そこで一所懸命に、神が私たちを守っていてくださいました。過ちを糾し、傷を包み、癒してくださいました。

     その神の救いの御手が今もここで生きて働いていてくださいます。その聖なる神は、そのみわざにおいて汚れた世に妥協はなさらない。たとえば16節、17節にこういう言葉があります。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」。19節にも、こう記されています。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。原文のギリシア語を読んでみると、「ささげる」という言葉もまた「聖める」という意味の言葉です。

     キリスト者であり、キリスト者になるということは教会に生きることだ、底辺に生きることだと考えてきましたが、それはここで語られている言葉で言うと、聖なる者として生きるということです。

     このヨハネによる福音書と、とても関わりの深いヨハネの手紙一第4章10節に、「ここに愛があります」と断言しています。愛とはこういうものだということがここでは分かる。そう言いつつ、ひとを招くことができるところ、それが教会です。教会がこの世に遣わされて生きる姿です。

     この聖なる者として生きている者の、具体的なひとつの特色を主イエス・キリストは17節においてこう語ってくださいました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」。このように、神がみ言葉をもって私たちを一所懸命守ってくださるようにと、主イエス・キリストが今ここで祈ってくださいます。その〈主イエス・キリストの祈り〉によって私たちは支えられています。その主イエス・キリストの祈りに応えて、神がみわざをしてくださいます。この祈りの中で、主イエスが見ておられるものがあります。たとえば6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」とあります。「神の選び」です。神が選んでいてくださる。

     主イエス・キリストは全く自由に私たちの足もとに入り込んで、汚れをぬぐって、聖めてくださり、健康な人間にしてくださって、「あなたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたをえらんだのだ」と声をかけてくださっているということです。こんなに私たちを深く慰めることはない。だから、私たちは主イエスのからだを、私たちの全存在をもって造ることができる。神の全くの自由な恵みが、私たちを選んで生かしていてくださっている。この教会において祝福の中にしっかり立つ。主イエス・キリストが人間の底辺とはどこか、ということを見抜いて、そこに来てくださった、クリスマスこそ、そのような愛の出来事であったということを改めて深く知り、感謝したいと思います。
    お祈りをいたします。