カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の国の幻に生きる

    2018年5月20日
    イザヤ書30:18~26、マルコ4:26~34
    関 伸子牧師

     ペンテコステ(聖霊降臨日)に、マルコが記した主の譬え話に聞きます。主がここで語られたこの二つの譬え、主が神の国について語られた譬え話の最後のものです。33節によれば「イエスは、人々の聞く力に応じて」語られました。分かるときに大切なことは、主の言葉を聞きながら、イメージが生まれるということでしょう。

     そこで主は、誰もが知っている農夫の生活から語り始められます。まず土と種を蒔きます。すべてが順調にいくようにと祈りつつ実りを待つのです。そして遂に実が実ったと知ると、鎌を取り出して、それを研いで、刈り入れに取り掛かることができる。皆、毎年経験していることです。ついでのことのようですが、「夜昼」と書いてあります。昼夜、ではないのです。なぜか。ユダヤの人びとが、今でもそのようですけれども、一日というのは日が暮れると始まると考えたからです。

     ここでは、眠りに就くことから始まる。だから私は子どもの時に、ユダヤの人びとの生活はおもしろいなあ、「さあ、新しい一日になった、おやすみなさい」という生活なのだなあ、と思いました。安らかに眠ることができる者は、神さまにすべてをお委ねする。

     「土はひとりでに」と書いてあります。この「ひとりでに」と訳されている言葉は、もとのギリシア語で言うと、「アウトマテー」という言葉なのです。英語のオートマティックという言葉がここから始まっているからです。ここで主イエスが語る、大地の「ひとりで」の働きは、人間の知恵を超える、神のみわざを映す言葉です。単なる自然のひとりでの働きというのではない。神さまがそういうふうにお創りになってくださった。

     それに続いて「からし種」の譬えが出てきます。この「からし」というのは、私たち日本人はよく知らないもののようです。英語の辞典を調べると、ブラックマスタードです。ある日本語の辞典には、〈黒芥子(からし)〉と書いてあり、種はほんどうに小さく、1ミリもない直径だそうです。その種を蒔くと、ぐんぐん伸びて、5メートルぐらいになるそうです。大きな葉のようで、それがさーっと広がると、その葉の陰の地面に鳥が巣を作って、安んじて卵を生むことができる。

     しかし、問題は、なぜ主イエスがこんな話をなさったのかということです。34節は、「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と更に書きました。新約聖書では、〈弟子〉というのはキリスト者の別名としていつも用いられています。使徒言行録を読むと、弟子の数何人と記録しているところがあります。そして、その主イエスの弟子とされた者たちならば、主イエスがここで何の話をしていらっしゃるのか、それが分かるのです。

     この後で、賛美歌の531番を歌います。「こころみの世にありて 罪の力、死のやみ とり囲みて 迫れど なお主こそ、わが望み」。カンバーランドの総会に出席するために渡米した時に、出席した教会の礼拝でも、この歌が歌われました。英語で歌って、あっと思いました。英語のもとの歌をそのまま訳すとこうなります。「あなたが私のヴィジョンとなってください、私のこころの主よ。」

     遠く日本を離れて、教会の礼拝に出席して、この賛美歌を歌い、心を打たれたのです。主イエス・キリストが私のヴィジョンとなってくださる。またそのことを私たちはいつも祈り願う。そのようにして、主は私の心を支配する主でいてくださる。主が私のヴィジョンであるということは、私は主を見ることができるということでしょう。

     先ほど、イザヤ書の第30章を読みました。イザヤ、あるいはエレミヤ、エゼキエル、多くの預言者が旧約聖書に登場してきます。この預言者たちが語った言葉は、イメージに満ちています。なぜこの豊かさが生まれたのだろうか。それは、彼らが、神が与えて下さった信仰のイメージのままに、時には、自分自身のこころを曲げてでもそのイメージの世界に生きようとした人たちだったからです。このイザヤ書第30章が書かれた時も、金銀の像こそ、まことの神であるかのように思い込んで、それに従った。イザヤは救いの時が来たとき、偶像を投げ捨てることのできるこころに生きる自分たちについての大きなイメージを描いた。その時には神の声が聞こえるのです。右でもない、左でもない、このまま行け、という言葉を聞く。そしてここにも、豊かな穀物と、牧場で腹いっぱいに満たされる家畜の姿を思い浮かべる。何よりもそこには、明るい光がさしています。

     その望みを生み出す神の働きをイザヤはここでこう語っています。「主の民の傷を包み 重い打ち傷をいやされる日」。傷を負っているから、望みを持つことができなくなる。誰が癒すことができるのか。それができるのは神おひとりなのです。

     ある人が、この主の譬えについて語っている自分の文章の最後を、あのヨハネによる福音書の第3章の16節の言葉でしめくくりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。これほどに愛されている。この愛のなかで私たちは生かされているのです。

     改めて思います。私たち自身も退かないで、妻であり続ける、夫であり続ける、母親であり続ける、父親であり続ける、日本人であり続ける、モンゴル人であり続ける。もちろん、そこで、キリスト者であり続けることをやめない。そのため、私たち皆共通に、神の愛のご支配があの主イエスから始まって、今どんなに豊かに続けられているかという、イメージに生きる、幻に生きるこころを分かち合いたいと心から願います。そうでないと、教会は息が絶えます。そうでないと、私たちの愛のわざはいのちが枯れるのです。聖霊の注ぎを受けて、主の霊に生かされたいと願います。お祈りをいたします。