カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスに遣わされて生きる

    2018年6月17日
    列王記下4:42~44、マルコ6:6b~13
    関 伸子牧師

     この朝私たちがこのマルコによる福音書から聞く記事は、主イエスが12人の弟子を伝道に初めてお遣わしになったという記録です。新共同訳は小見出しに、12弟子とは書かないでただ「12人を派遣する」と書いています。

     なぜ、12という数を大切にしたか。アブラハム、イサク、ヤコブ。3人の信仰の祖先を持っているイスラエルの民が、ヤコブの時に、その子12人を頭とする12部族をもって組織された。この12の部族をもって造られる神の民イスラエルが、今ここにおける僅か12人の者によって新しくされているのです。後にキリストの教会が成立してから、教会はしばしば自分たちのことを「新しいイスラエル」、あるいは「神のイスラエル」と呼びました。マルコもそう信じたと思います。

     先ほど、列王記下第4章が伝える、預言者エリシャの伝道の生涯のごく一端を読みました。主の言葉によって遣わされて、主のわざをする時、私たちにとっては思いがけない奇跡がそこに現れる。しかし、エリシャは、わずかな食物が何倍にもなって数多くの人びとを養うことを確信したのです。この「12人」もまた、主によって遣わされて、主の言葉を語って、伝道するということがどういうことであるかを、ここで初めて体験的に学ぶのです。

     この12人は、12節によると「悔い改めさせるために宣教した」のです。7節に、「汚れた霊に対する権能を授け」とありますけれども、悔い改めることを、不信仰な人びとの中で説くということは、その不信仰そのものと向かい合うことを求めるのです。自分自身の罪と向かい合うことを求める。先頭を切って最も賑やかに伝道したかもしれないと思われるのは、ペトロです。そのペトロを初めとする人びとが、この後間もなく、第8章の終わりに近く、主イエスがご自身の救いは何によって行われるのかということを、お語りになった時、それはとんでもないことだと思いました。そして、主イエスは、「サタンよ、引き下がれ」と言われたのです。

     主イエスに後に、そのように、サタン、悪魔、とまで言われるようなことをするペトロが、ここですでに主イエスの言葉の担い手として遣わされているのです。

     第16章を読むと、主イエス・キリストが甦られて、集まっている弟子たちに、ここでなさったのと同じように、もう一度伝道の命令をお与えになりました。もう一度、悔い改めを説くことをお勧めになりました。ペトロは、この最初の伝道の時、自分の体で味わった体験を、そこで改めて思い起こしたかもしれません。不信仰の種を宿したまま遣わされたという事実、それは後の教会の伝道に携わったペトロたちを謙遜なものにしたと思います。

     なぜ、この伝道に際して主から遣わされた者たちは、2人ずつであったか。ある人はこんなふうに言う。2人で行って、み言葉を語ることはいいことである。ひとりの言葉がつまってしまい、途方に暮れるとき、もうひとりの者が側にいてうなずいて、この人の言っていることは本当だと支えてくれる。使徒パウロもまた、ひとりで伝道しようとはしない。獄に捕らわれてただひとりになりかけた時、大急ぎで手紙を書いて自分の若い同労者であるテモテに、自分のところに来て自分を支えてくれることを求めました。

     主イエスは2人ずつお遣わしになると共に、もうひとつ、ずいぶん厳しいことをお命じになりました。杖1本しか持ってはいけない。パンも、袋も持つなと言われたのです。「帯の中に金も持たず」、と書いてあります。小銭も持つな、です。「履物」とあります。これは最も粗末な履物を意味する言葉です。外国語ではよく「サンダル」と訳しています。日本語で言えば、草履です。主は、「12人」に本当の意味で裸一貫で出ていけと言われたのです。

     私たちは主イエス・キリストから福音の言葉を頂いたのです。その時に主イエスはただ言葉の語り口だけをお教えになったのではないのです。その言葉によって、あなた自身がどう生きるかを問われたのです。これは伝道者だけの問題ではありません。皆さん一人ひとりのことです。皆さんご自身の家庭での、職場での生き方が問われるのです。

     主イエスはこの2人ずつ伝道に赴く「12人」それぞれに、断固たる姿勢を更にお求めになりました。「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を落としなさい」。これは、なかなかできないことです。そこで明らかに分かれ目が生まれるのです。ここである人は「危機」という言葉を使いました。「危機」と訳される元の言葉は、英語でいうとクライシスです。これは、聖書によく出てくるギリシア語によるもので、もともと「岐(わか)れ道」、「分れ目」という言葉です。命か、滅びかという岐路に立つのです。真理か、偽りかということが問われるのです。

     そして12人は悪霊に勝った。ヤコブの手紙は、その最後で、病気になった人があったら、教会の長老を呼びなさい、油を塗って、祈ってくれる、そうしたら、あなたは立てると書きました。祈れなければ、私たちがそれを支えて祈る。そこで共に祈りのなかで建つのです。

     主イエスがお遣わしになって12人がした経験はわずかなものであったと思います。けれども、神の国を伝え、神の国に生きるということはこういうことだという手応えは残ったと思います。この国にも、あの明治以来の日本の体制の中で、時に節操を曲げることを強いられながらも、自分の弱さに耐えながらも、福音の宣教が続けられてきた、その原点がここにある。そして私たちは今ここでもう一度その伝道の原点に返るのです。新しい時代に私たちがやれることはそれしかありません。皆さまお一人おひとりの福音の証し手としての歩みにも祝福がありますように。