カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の言葉は永遠に

    218年6月24日
    ヨナ書4:1~11、マルコ6:14~29
    関 伸子 牧師

     今日のマルコ福音書には、「洗礼者ヨハネ、殺される」という小見出しがついています。これは新聞の三面記事に出て来る見出しによく似ているかもしれません。

     ここに記されていることを言語にもっと忠実に訳すならば、「殺される」ではなく、「洗礼者ヨハネは既に殺されていた」とすべきなのです。もう過ぎ去ったことです。マルコ福音書は主イエスのガリラヤにおける伝道が、ヨハネが捕らえられた後のことであったということを、第1章に書いていました。けれども、そこでは、ヨハネはまだ殺されていなかったようです。そうすると、この時点に至るまでのどこかで、ヨハネは殺されていたのです。なぜその時書かなかったのでしょうか。

     この洗礼者ヨハネの記事ついて学ぶ時に、もちろんその前後関係を考えてみなければなりません。この前の箇所で、12人の人たちが伝道に遣わされました。この後の30節を読むと、「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが言ったことや教えたことを残らず報告した」と書いてあります。「使徒たち」と訳していますが、この言葉は、「遣わされた人たち」という意味を持っている言葉ですから、ここは「遣わされた人たちが帰って来た」と訳すことができます。いずれにしても、12人は今伝道に行っている。ここは留守。新聞記者の立場から言うと、書くことが無いのです。そこで、今まで、伝えることを怠っていた重大なニュースをここに書き込む。しかもここを読むと、少なくとも主人公はイエスではありません。ひとりの権力者が預言者を殺してしまったという話です。みなさんはこの記事をどんなふうにお読みになったでしょう。

     ある説教者がここについて、こういうことを言っています。ここに記されている物語に題をつけるとすると、「この世のしたたかさと、それにも勝るこの世に働く神の言葉のしたたかさ」。「神の言葉のしたたかさ」とは、殺されない強さです。「したたかさ」という言葉は、「この世の頑固さ」と言ってもよいのです。頑ななのです。心が固い。「うん」と言ってうなずかない。その頑なさが何をしたかというと、神の言葉を殺したのです。洗礼者ヨハネが殺されたということは、神の言葉が殺されたと書き直しても差し支えないところです。しかし、それで終わらないのです。神の言葉は殺された。しかしなお、神の言葉は生きている。神の言葉は殺せないのです。

     ヘロデは、ここでは「王」と書かれています。このことについては学者たちがいささか批判的です。なぜかというと、このヘロデは、ガリラヤの領主と言われていますけれども、ガリラヤを本当に治めていたのではない。ガリラヤもまた、ローマ帝国の領土でした。だから、ローマ帝国によって立てられた支配者ではなかったのです。しかし、わたしは、ここでマルコはどうしても「王」と書きたかったと思うのです。なぜかというと、ヨハネを殺したからです。権力者というのは、人を殺して、しかもそのことが罪にならないところに立っている人だと多くの人びとは考える。その妻ヘロディアは、ヨハネをうらんでいたけれども殺すことはできなかった。だから殺すことができる権威、権限を持っている自分の夫を利用しようとしたのです。神の言葉を殺す力として働くひとつの力は、明らかにこの世の王たちの力でした。キリスト教会はこういう力と向かい合った形で何百年か生きて、殉教の歴史を作りながらその伝道を続けなければならなかったのです。

     洗礼者ヨハネという人は、私たちが想像するように、いつもこわい顔をしており、いつも人びとの罪をなじっていた人ではなくて、自分を捕らえている王に対して愛を込めて、あなたは罪人です、早く悔い改めなさいと語ることができた人です。そのように主イエスの先駆けであった人です。ヘロデはそれを聞くことができた人です。疲れれば現れてくる自分の弱さというものを知ることができた人です。そのヘロデが、ヨハネを殺してしまった。その経緯はここに書かれている通りです。おそらく思いがけないことであったと思います。しかし、マルコは丁寧に書いている。26節です。「非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」。王の対面があったというのです。恐らく、ヘロディアの愛を失いたくないという思いもあったと思います。そしてヨハネを殺してしまった。それだけに、主イエスが登場した時に、そのヨハネの再来であると人びとが言う言葉を聞いて、ヘロデは恐れを抱いたのです。ヘロデ自身が、私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだと言わざるを得なかった。なぜかというとあそこで喜んで聞いた言葉が、また響き始めていたからです。彼はガリラヤの領主です。その自分の足もとで、イエスという男が語り始めた言葉のなかに、洗礼者ヨハネの言葉と同じ響きを聞いた時に、恐れを覚えたのは当然であろうと思います。そして、その先どうなったのか。それは、マルコは書いていません。

     先ほど、このマルコによる福音書に併せてヨナ書を読みました。大きな都ニネけれども、大きな魚に飲まれて、吐き出された所がニネベであった。そして悔い改めを迫る。しかし、ヨナはまたそこで不思議な経験をする。こんな、神にそむいたひどい都は滅びるべきだと思っている所で、神がそれを惜しむという経験をするのです。そこでヨナ書は終わるのです。「わたしは殺せない、この都を」と神が言われたのです。神の勝利は別の形で起こる、それは今も変わらないと私は思います。

     マルコによる福音書は、ヨハネを語り、そしてそのヨハネに続いて、ヨハネよりももっと激しい死と甦りの力をもって、神の言葉のしたたかさを証しした主イエスについて語りながら、私たちはどこに生きているのかということを、どこで死ぬことができるのかということを、明確に書き留めることができました。その意味では、この三面記事に似たような物語を、大きな、明るい光のなかで書き記すことができた人があったと思うし、私たちもまた、それを読むことができる幸いることを感謝したいと思います。お祈りいたします。