カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 感謝・賛美・悟り

    2018年7月1日
    詩編103:1~22、マルコ8:1~21
    関 伸子牧師

     マルコによる福音書第8章の6節に、イエスが「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」と記されています。

     弟子たちは、この時、この主のお手伝いをしました。主がわける食物を運んだだけです。後に伝道者になった弟子たちは、この奇跡の体験を、いつも新たな思いをもって思い起こしていたに違いないのです。先ほど、このマルコの記事に併せて詩編第103編を読みました。2節、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」。少し別の翻訳をすれば、「主なる神がしてくださったことを忘れないようにしよう」ということです。18節によれば、ここに既に主イエスは、「覚えていないのか」という言葉を弟子たちにお語りになった。

     今日は1節から21節までを読みましたが、この21節は、「イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた」という言葉で終わります。この「悟る」、「悟らない」という言葉は、マルコによる福音書が、ここで初めて書いたわけではありません。特に際立った言葉は、第4章12節です。11節以下にイエスは、こう言われました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず / こうして、立ち帰って赦されることができない』ようになるためである」。

     この「理解できず」というのが、「悟らない」というのと同じギリシア語です。神の国の秘密がわからない人たちは、外の人たちだと主イエスがはっきりおっしゃっている。ところがこの第8章に至って、主イエスが弟子たちに語られた言葉は、「あなたがたも外なる人か」という問いです。

     パンの奇跡と、この「悟らないのか」という主イエスの言葉との間には、ファリサイ派の人たちと主イエスとのやりとりが記されています。パンの奇跡が起こったところにファリサイ派の人びとがそっと来て、「天のしるし」を求めた。それを主イエスは断固拒絶なさった。

     すぐその後に、ファリサイ派の人々を置いて、舟に乗って向こう岸へ、弟子たちとイエスが行かれた時に、弟子たちは途中で気がついたのかもしれない。パンをひとつしか持っていない。途方に暮れた。その時に主イエスは、ここではパンの奇跡はなさらなかった。そして、「ファリサイ派の人びとのパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われた。ファリサイ派は、当時の信仰者の代表です。ヘロデは当時の現実主義者の代表です。そういう人たちのパン種に気をつけなさいと言われました。パン種とは小さなものですけれども、あなたがたの心のなかに忍び込んだら、あなたがたの全存在が、それによって滅ぼされてしまう。気をつけなさい。

     いったい、弟子たちは何を聴き損なったのでしょうか第6章のほうでは、弟子たちのほうで群衆の空腹を気遣った。だから今ここでもう集会を解散して、パンのことを自分たちでまかなうようにさせたらどうかと、イエスに言いました。ここでは、主イエスが、ご自分のほうから、その弟子たちを呼び寄せて語りかけられるところから物語が始まる。「群衆がかわいそうだ」という言葉です。この言葉は、口語訳で「我この群衆を憐れむ」という言葉から始まっていました。第6章では、新共同訳も、「深く憐れみ」という言葉をそのまま訳していたのです。

     イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた(34節)。パンの奇跡は、何といっても、この主の「憐れみ」の物語です。

     この心は、12節にも現れていて、「イエスは心の中で深く嘆いて」と記されている。この「深く嘆く」というのは、ある翻訳では、「呻く」と訳しています。もしかしたら、そのほうが主イエスの姿に近いかもしれません。そしてその言葉を読むと、私たちはあのローマの信徒への手紙の第8章で、霊が言い難い嘆きをもって、私たちの祈りをとりなし、霊みずからがうめいていてくださることを告げている言葉を思い起こすことができます。

     「はっきり言っておく」という言葉、これは元の言葉では「アーメン」という言葉です。神が語った言葉を受け取る時には、「アーメン」と言うのです。そして、この「アーメン」という主イエスのみ言葉は、あのゲッセマネの夜にまで続きます。聖餐は、主イエス・キリストの十字架を示すものであることは明らかです。

     最後の晩餐の日に、聖餐を受けるたびによく思うのです。ペトロたちはどうしたろう、ヤコブたちはどうしたろう。明らかに最後の晩餐の記念の日に、彼らは特別の思いをもって聖餐を分かち合ったでしょう。それは弟子たちにとって、この「悟らない」ということが、最も鮮やかに表れた夜です。主イエスから食事をいただいた、飲み物をいただいたその夜、イエスを〈捨てた〉のです。その食事だったのです。しかも自分たちの、そのように裏切りにまで至る〈悟らざる罪〉が、その主イエスの〈恵み〉をもって覆われている、甦りの光の中で覆われているということ、それはどんなに〈激しい神の企て〉であったことでしょうか。感謝の言葉も出なくなるほどの思いを抱いたのではなかったか。

     エフェソの信徒への手紙第5章8節、それは、このようにさえ語ります。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。私たち自身が光になる。主イエスのあの激しい〈愛の光〉を、身に浴びるだけではなくて、自ら携えて〈持ち運ぶ〉ことができるようにさせていただく。自分が、その光に変えられる。まさに教会はそのようにして生まれたし、そのように生き続けて来たのです。ここに集まっているすべての方に、この甦りの主の祝福が豊かにありますように、お祈りをいたします。