カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 信仰の生まれるところ

    218年7月15日
    エゼキエル13:1~7、マルコ9:14~29
    関 伸子牧師

     聖霊降臨日以来、二千年の間、教会は神の霊によって支えられて来ました。この霊は、いったい、いかなることをしてくださるのか。そのことを語る聖書の言葉の中でも、私たちがいつも鮮やかに思い起こして慰めを受けるのは、使徒パウロがローマの信徒のために書いた手紙の1節、第8章26節です。

     パウロは、神の霊ご自身が言葉にならない呻きをもって、私たちをいつもとりなしていてくださる、神の前にいつもきちんと立てるようにしてくださる、と言います。この霊の呻きを思い起こして、この朝与えられたマルコによる福音書第9章の記事を読むと、その霊の呻きに重なるように、主イエスの呻きのみ言葉がここに聞こえてきます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。

     ある国の言葉では、「いつまであなたがたを、わたしは運び続けることができるか」と訳すことができる言葉で訳しています。愛するが故の忍耐は、重い荷物を運ぶのに似ています。そこから生まれて来る呻きです。そこから出てくる痛みの言葉です。

     主イエスは、ここで何に耐えられないとおっしゃったのか。「なんと信仰のない時代なのか」。しかもその不信仰というのはどこに現れて来たか。主イエスは高い山に上って、内側から神の栄光が現れ出て来るような不思議な姿を、弟子たちにお示しになった。ちょうどその時、モーセが山にいる間に、足元において、イスラエルの民が不信仰を言い表し始めたように、不信仰がその高い山の麓で姿を現した。しかも誰が見せたかというと、主の弟子たちなのです。

     ひとりの子どもがいて、その子どもには、産まれた時からひどい病気があった。何とか助けていただきたいと思って、その父親は、主イエスのところに連れて来た。ところがイエスは不在、先生はおられない。おられなくても弟子たちには自信があったと思います。いつも主イエスとその弟子たちを観察し、監視していた律法学者たちがそれ見たことかと乗り込んで来る。その周りで群衆がわいわいと騒いでいる。面白がっている。そのすべての中に主イエスは不信仰をご覧になる。

     後で、自分たちだけになったとき、おそるおそる弟子たちはイエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねたのです。主イエスはそのときに言われた、「こういうことは祈らなければ、不可能である」と。

     山川千秋というテレビのキャスターをしていた方で、重い病に罹って亡くなった方があります。お連れ合いが先に信仰に導かれていて、その支えもあって、その病床で洗礼を受けて死にました。「死は終わりではない」という書物を夫妻の名前で出しました。この方はかつらをつけていました。東京の都心に出て地下鉄の駅から階段を上がって来て、タクシーに乗ろうと思った時に、風が吹いて来てかつらが飛んでしまった。夢中になって走ってそれを拾ってタクシーに飛び込んだ。とても恥ずかしかったけれども、これは神のご計画だなと思ったと書いてあります。テレビというのは、人に妬みと虚栄だけを教えるものである。自分はその世界に生きて来た。しかし今は神の前にあって、裸になって生き、また死ぬことを学んでいる。私たちの信仰の生活においても、教会の中に生きている私たち、人の目をまず何よりも恐れ、自分の目だけで自分を見る。しかし主イエス・キリストの声が聞こえなくなる。

     しかし、主イエスはここで、この不信仰の世を、一所懸命に一緒にそれを支え、耐えてくださりながら、信仰を生み出そうとなさったのです。

     おそらくここで最も困惑していたのは父親でしょう。22節を見ると、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言っています。この子どもは、今日の病気の言葉で言えばてんかん持ちであったろうと言われています。とても不思議な激しい病気ですから、悪霊につかれているのだと、人びとは考えたのです。しかし、この父親は、その子どもと一緒になって生きた。だから主イエスのところに運んで来て、心から願いました。「わたしどもを憐れんでください!」。この父親は、「おできになるなら」と言いました。23節で、主イエスは、その父親の言葉の訂正を求めておられます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。主イエスは、同時に、「信じる者には何でもできる」という信仰の信頼の中に、私たちを呼び込んでおられるのではないでしょうか。

     「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」。これは信仰の心が、最もよく言い表された、喜んだとも言える言葉です。

     「わたしは信じます」と言っている。私たちはそういった時には、すぐこう続けると思います。「だから」助けてください。けれどもここでは、この父親は、「できれば」という不信の言葉を取り去ることができないのです。それが私たちの体験です。「けれども、主よ、あなたがそれを取れとおっしゃるならば取ります」。そう言って取ったときに何が起こるか。自分を主イエス・キリストに預けてしまうより他なくなります。信じることの確かさは、私自身のなかにはありません。信じることの確かさを、主イエス・キリストの中にだけ置くのです。霊の中にだけ置くのです。

     「おできになる」と、私たちがここで信仰を言い表すときに、そこで見えて来る主イエスの力は、そういう力です。つまり、祈ったらどんな病気でも治してくれるかどうかということで、私たちが試すことができる力ではなくて、癒されない病の中でも恵みを語ることができるようにしてくださる全能の力です。全能の恵みです。自分の外に出て「信じます、主イエスだけを信じます、信仰のない私を助けてください」という祈りを、自分のものにすることができるようになるのです。この信仰の言葉を、私たちの共通のひとつの信仰の言葉として、心のうちにひざまずき、恵みにあずかりたいと、こころから願います。お祈りをいたします。