カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • キリストの味方になろう

    2018年7月22日
    詩編22:23~32、マルコ9:38~41
    関 伸子牧師

     主イエスには12人の弟子がいました。今私たちが読んでいるマルコによる福音書は、その第9章の初めに、主イエスが山の上で栄光に包まれる姿をお示しになったことを記しています。そこにも居合わせることが許されたのは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3名です。この中で、一番年若いと考えられているのがヨハネです。

     この第9章38節以下の記事でも、そのヨハネがひとりで登場してきます。この後、第10章に入ると、いよいよエルサレムが近くなっている時に、このヨハネと兄のヤコブ、ゼベダイという人の息子、「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」と紹介されています。この2人の者が主イエスに、あなたがみ国の支配を始められる時には、わたしたち2人を重んじてその両側に座らせてくださいと頼んでいます。

     マルコによる福音書第3章14節を読むと、主イエスがこの2人にボアネルゲスと名づけ、「雷の子ら」という意味だとマルコは説明しています。雷、それは突然鳴ります。そのように、すぐにのぼせあがって熱狂的になって、雷のような声を出す。

     「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。この「やめさせようとした」という言葉は、もうひとつの可能な訳は、「やめさせた」というのです。31節に、「わたしの名のために」と主イエスがおっしゃっておられます。われわれについてこないくせに、勝手にイエスの名を使って病気を治してしまう、その評判を聞いたのかもしれません。

     ある参考書によると、この頃、あるいはもっと以前のエジプトの石の使ったまじないの言葉に、たとえば、アブラハム、イサク、ヤコブというユダヤの信仰的な指導者の名前が、繰り返して用いられたようです。「サタンよ、アブラハム、イサク、ヤコブの名によって出て行け」などと言うと、もしかするとその悪霊はユダヤ系であって、案外言うことをよく聞いたかもしれない。特に日本の国はこういうことが得意な人たちがたくさん出て来るところです。釈迦も孔子もキリストも全部並べ立てて、これらの教祖たち、あるいは神々の名によって、癒しを行い、教えを伝えている。そのような状況を思い合わせればよいのです。

     ヨハネのように熱情的で純粋な考え方をする若者にとっては、我慢できないことであたろうと思います。止めさせようとしたけれどもうまくいかなかったということであるかもしれません。だから心の内で、「あの人もけしからん、この人もけしからん、イエス・キリストの名を使いたい放題に使って」と呟いているだけです。主イエスは、こんなことを言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。

     ここに「奇跡」とありますが、もともとは「力を振う」という意味の言葉です。実際に人を癒すことができるのだから悪くはない。そのあとで、すぐにわたしの悪口を言うということは、いくら何でもできないだろうと言われたのです。

     このマルコによる福音書が書かれたのは、ローマ帝国の都のローマにおいて、キリスト教会に対する迫害が最も厳しかったと考えられています。ペトロが殉教したことは明らかのようですけれども、ヨハネについてはよくわからないところがあります。しかし、十字架の道を歩いて伝道者になったのです。

     ヨハネはここで、「悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちにも従わないので、やめさせようとしました」と言いました。主イエスは、それに答えて、たいへん不思議な答え方をなさった。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。

     わたしたちはキリストのために戦っている、キリストに従って生きている、神の栄光のために戦っていると思い続けています。私たちが主イエスの名によって語っていながら、そこに主がおられないということが起こり得るのです。

     このような時に、思い起こして、私たちがしばしば躓く、主のみ言葉があります。それはマタイによる福音書第7章21節、山上の説教の終わりに近いところで、こう言われたみ言葉です。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。「主よ、主よ」と呼ぶだけでなくて、そこでみこころが行われることを願っておられる主が、今度はご自身の名を用いながら、まだ自分自身について来ることができない人びとの中でも、なお自分が用いられていることをお喜びになることは、矛盾していることとは思えないのです。

     「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。主の弟子になることはできなくても、そっと一杯の水を与えてくれる、一日の食事を提供してくれるひとがいる。喜びに溢れる時です。しかし、喜びつつ、心の内で問うのです。この人はそれでもまだキリスト者になっていないではないか。その時に、主イエス・キリストのこの言葉が聞こえてくる。「よかったではないか、あなたに対して与えられたこの一杯の水に対する報いは必ずある。神がみこころを行ってくださる」。

     カール・バルトという神学者は、イエス・キリストが再び来られるという、キリスト者の誰もが本当には信じていないかもしれないようなことが、大切なことなのだとユーモアをもって語ったとある人は言います。主イエスは来られる。それは人間の不確かさや高ぶりを越えて、主イエスをここに送ってくださった父なる神のみこころに、すべての確かさを置く者だけが知っている、喜びあるユーモアを生む望みの約束です。私たちもまたそのような広い心に生きることができるように、祈りをひとつにしたいと思います。お祈りをいたします。