カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の国に入ろう

    2018年7月29日
    歴代誌下13:1~5、マルコ9:42~50
    関 伸子牧師

     今朝は、マルコによる福音書の第9章42節から50節までのみ言葉を聴きつつ、礼拝をします。聖書の研究者たちは、こういうところでこういう話をします。この福音書が書かれたのは、主イエスが地上で伝道の仕事をなさって天に昇られてから、10年、20年という歳月が経った後。聖書がないのです。こどもたちも大人たちも、教わるみ言葉が、口で語られるのを、耳に聴き、こころに刻んで覚えたのです。

     ここでの連想による記憶は、集中するひとつのことがあって、そのために必要なみ言葉は皆覚えておかなければいけない。「神の国に入る方がよい」(47節)とあります。神の国に入る、そのことのために集中したい、という祈りがここにあります。

     このマルコによる福音書は、冒頭に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記し、主イエス・キリストが登場なさった時の、その福音宣教の主題を簡潔に記しました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。神の国は近づいたのです。そして今この時、主イエスは、第8章から始まって、十字架についけられる日が近いということを、はっきりと語り続けておられる。主イエスが集中してみ言葉を語り弟子たちをここで訓練しておられるのです。

     50節の最後に、こうあります。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。なぜそこに「平和に過ごすように」という教えが語られているのでしょうか。33節以下に記されている弟子たちの議論が、背景にあると読むこともできる。主イエスが十字架のことをお語りになり、人に仕えることが大切だという話をしておられるのに、弟子たちが何に熱中していたかというと、この中で誰がいちばん偉いだろうか、どこかでわたしがいちばん偉いのだと言いたい思いがあった。「平和」、それは、別な言葉で言えば、「和やかな関わり」です。主イエスは私たちが平和に生きることができるようにと十字架につけられて死なれたのです。そして甦られたのです。だからこそ、使徒パウロはエフェソの信徒への手紙第2章14節に、こう書きました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。

     どのように平和に生きるのか。自分自身の中に塩を持てばよいのです。先ほど旧約聖書の中に出て来る興味深い表現をご一緒に読みました。歴代誌下第13章5節に記された「塩の契約」という言葉です。塩がなければ生きられないということを、人間は皆知っていました。

     そのように理解すると、この塩の契約は神の恵みを語るものだと見ることができるかと思います。その意味では、コロサイ信徒の手紙第4章6節を思い起こしておくのがよいでしょう。「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどうこたえるべきかが分かるでしょう」。神の恵みが宿っている、そのような塩の言葉を語るようになろうと言っているのです。

     主イエスがここで語っておられる塩というのも、同じだと思います。「平和を造る言葉」です。しかし、ここでなぜ塩という言葉が出て来たかというと、49節で「火で塩味を付けられる」とおっしゃったからです。この火とは地獄の火なのです。文語訳聖書では、「ゲヘナ」と記されていました。

     旧約聖書のエレミヤ書の第19章2節に、「陶片の門を出たところにある、ベン・ヒノムの谷へ出て行き、そこでわたしがあなたに語る言葉を呼ばわって」という言葉があります。この「ベン・ヒノム」という言葉は、「ヒノムの子ども」という意味です。このベン・ヒノムという言葉をギリシア語に移してゲナーと言ったのです。今でも、エルサレムの陶片の門というのを出た所にあるそうです。この谷は、エルサレムの都のごみ処理場であった。更に、人の死んだ体を処理する場所でもあった。

     更に、エレミヤ書第19章5節に、「彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった」と記されている。

     預言者エレミヤの言葉に託して、まことの神は言われる。恐るべきことをした。それが行われたのが、このベン・ヒノムの谷、つまり、ゲナーの谷なのです。だからここでエレミヤは更に6節にこう記しています。「それゆえ、見よ、と主は言われる。このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る」。

     滅びの谷と呼ばれる。それは人間の罪が最も鮮やかに現れて来たところであると同時に、それに対する神の審きが明確に現れるところとなるのだという意味です。

     さて最後に、旧新約聖書の中における塩の役割を、もう一度考えてみると、塩は、とても面白いことに、ユダヤの人にとっても清めの意味がありました。おそらく腐敗を防ぐのに役立ったからでしょう。日本にも「お清めの塩」というのがあります。エルサレムの神殿には、塩の蔵がありました。神殿に献げられる献げ物が聖められるために塩が用いられたからです。あるいは親が子どもに聖めの塩を塗りつけるという習慣まであったのです。私たち自身の中に塩が生まれる。それは主イエス・キリストを信じることによる。主イエス・キリストのものになり切るより他ないのです。

     最後に旧約聖書のひとつのみ言葉を読んで終えます。イザヤ書の最後の言葉です。第66章22節からです。この預言者の言葉は、厳しい思いをもって呼びかけ、叫び続けています。神の恵みの外に出ないようにしよう、われわれを蝕む蛆が耐えないところ、地獄の火の消えないところに、出て行かないようにしよう。神のみ手の中に立とう。それは、ただ神が造られる新しい天と地に生きる以外にないということです。イザヤの望み見た新しい天と地が、主イエスによってもたらされたことを感謝し、信じて、そこに生きたいと、心から願います。お祈りをいたします。