カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 童心復活

    2018年8月5日
    詩編127:1~5、マルコ10:13~16
    関 伸子牧師

     今日の聖書の言葉、これはとても単純な主の教えです。子どものようになりなさいという教えです。しかし、この主の言葉は私をうろたえさせ、私たちの言葉を新しく求めさせるものであることに改めて気づきました。

     ここに登場して来る弟子たちは、私たちの姿をよく映し出す鏡のようなものです。人びとは子どもたちを連れて来ました。原文には「人びと」という言葉はありません。ギリシア語は、主語を抜きにして、動詞だけで文章を書くことができます。子どもたちは自分の意志で来たのではありません。連れられて来たのです。

     今も昔も、日本でもどこの国でも、親は子どもが与えられると、その子の将来の祝福を願います。今大切な時にさしかかっている主イエスが、そのような人びとの願いによって連れて来られた子どもによって、煩わされるとは、とんでもないことだと弟子たちが考えたのは、ひとつの当然な筋道であったと私は思います。

     弟子たちの権力はささやかなものです。この弟子たちも、やがて当時の政治的宗教的権力の前には逃げ出すのです。そういう弟子たちであっても、今ここでは、自分たちは主イエスの弟子だと、ささやかな権力の思いに子どもを退けたのでしょう。

     16節を読むと、「そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と記されています。聖書の信仰によれば、祝福というのは重いのです。神の名においてなされた祝福は、もう取り消すことができないものでした。祝福しようと思う者が、その祝福を遮られた時に、思わずそのみこころの中に噴き出たのが、この憤りです。

     さてそこで、ここでもうひとつ大切な教えは、14節です。ここには離縁についてと、財産についての教えに挟まれてこの子どもについての教えが記されているのです。初めのところでは、主イエスは、いったいどういう条件の下で離縁が可能であるかなどとのんきな議論をしていたファリサイ派の人びとが、主イエスに対しては、離縁がいいかどうかということまでの問いに対して、基本的には結婚した者は分れるわけにはいかないということをもってお答えになった。もし離縁せずにおれなかった者が再婚した場合には、その再婚した者がよく知っていなければならないのは、これは、以前の夫、以前の妻に対する姦淫の行為であり、その人の人格を傷つける行為をしているのだということを忘れるなと言われたのです。この後、17節以下には、私たちが、「富める青年」という題を付けて読んできた言葉が記されています。全財産を施して主イエスについて来なさい、愛とは、全財産を施すことだと主は言われたのです。これもたいへん厳しいことです。

     その間に挟まってこの子どもの話が記されています。神の前に、神と共に生きている私たちが自分の家で育てている子ども、孫、それを、神のご支配、主イエス・キリストの恵みとの関わりの中でどう捕らえているか。

     いくつか読んだ説教の中に、ヨーハン・クリストフ・ブルームハルトというドイツの説教者の説教がありました。この人は、その説教の中で具体的に、こう言うのです。子どもは可愛いものではない、うっかり子どもに自分の書斎に入られると、引っ掻き回されるし、叱るわけにもいかないし、子どもほど面倒なものはない。しかもこの子どもを主イエスが妨げてはならないと言われたことを、自分は本当に謙遜に聞かなくてはならないと、そう言います。その通りです。主は無条件で祝福しようとしておられるのです。それを受け入れるかどうかです。

     以前に読んだ、朝日新聞の小さな欄にこんなことが書いてありました。テレビでスポーツ選手のインタヴューで、いろいろ言った後で、選手は必ず、「頑張ります」と言う。「頑張る」というのは、国語辞典で何と説明するかというと、「我を張ること」と書いてある。「頑張ります」というのは、「我を押し通します」ということ、そんなことを言わせておいていいのか。そのような趣旨の主張でした。スポーツ選手だけの問題ではなく、私たちの生き方に向かって投げかけているのだと思います。

     マルコによる福音書第10章には離婚についての教えが記されています。離婚の問題においても大切なのは、頑固な心、頑張る心を捨てることなのです。この結婚は神が結んでくださったものだという、神のみこころに対する柔らかな心を抱き、自分の心を開いてしまうことなのです。その後に「金持ちの男」の記事が書かれていますが、この青年の問題も、頑張ることを止めなさいということです。献身とは頑張ってすることではありません。主は、そこでも、子どものように神の国を受け入れる人にならなければ、決してそこに入ることができないと言っておられるのです。

     その時初めて、この子どもをどうやって神に愛していただこうかということにこころを煩わせるよりも、子どもと一緒に並んで、まず自分が主の祝福の恵みの前にひざまずく姿勢が生まれるし、その時に初めて、子どもを育てるということはどういうことかが、わかって来ると思います。

     ここで、主イエスが携えて来てくださった祝福は、弟子たちにも注がれています。それを子どもにも分けようと言われたのです。なぜそれを、祝福の子であるあなたがたが退けることができるのか。そう問われた主イエスの憤りには、深い悲しみがあったと思います。そしてこの憤りと悲しみの故に、主イエスは死なれたのです。その死なれた主イエスを神は甦らせてくださいました。祝福を受けるということはどういうことか。弟子たちは後になってやっとわかりました。キリストの祝福の手を確信して、そこで安らかに生き、安らかに戦い、安らかに死ねたのです。弟子たちの心もまた、その意味で幼子のように柔らかな心に生きることができました。

     私たちは、今、聖餐にあずかります。主の祝福のみ手の前に、心してひざまずくことを共にしたいと思います。そしてここで真実にやわらげられた心をもって、私たちの子どもたち、家族、共に生きる人びとのところへ帰って行きたいと願います。