カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 安心して立てる

    2018年8月12日
    エレミヤ29:10~14、マルコ10:46~52
    関 伸子牧師

     マルコによる福音書第10章49節に、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、短い三つの言葉が連続しています。口語訳では「喜べ」。「喜べ、立て、おまえを読んでおられる」。文語訳では、「心安かれ、立て、汝を呼びたもう」となっています。文語訳が「心安かれ」、口語訳が「喜べ」で、また新共同訳で、「安心しなさい」となったのです。いくつかの英語の聖書は、ここで「安心しなさい」と訳されている言葉を、「チアーアップ」と訳しています。「チアー」というのは、私たちがよく聞く言葉です。高校野球の応援にもチアガールが登場します。この時のチアー、喜び躍る、という言葉がここで用いられているのです。それに上への運動を意味するアップという言葉が付け加えられているのですから、文字通り、躍り上がる喜びが語られています。喜びの跳躍です。
    しかしそこを、新共同訳を訳した人たちが、「安心しなさい」となぜ訳したのでしょうか。バルティマイは行動を起こす時に、安心して救いに向かって立ち上がって、躍り上がったのですから、そのはずみで、主イエスのところに走って行ったかもしれない。そのような安心を呼び起こす言葉です。

     この物語の主人公となったのはバルティマイという人です。同じ物語と思われるのが、マタイによる福音書とルカによる福音書にも記されていますけれども、名前が書いてあるのは、ここだけです。この「バル」というのは、子どもという意味の言葉ですから、バルティマイというのはティマイという人の子どもだということになります。なぜこのように説明しているのでしょうか。この福音書を読み、礼拝している人びとは、ローマで信仰生活をしている人びとです。ラテン語やギリシア語で生活をした人たちです。そういう人たちのためにバルティマイという名前の起こりを説明しているのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。そう言われて、わたしは、何もかも放り出して、躍り上がって、主イエスのところに行った。そして、ほら、ごらん、このようにこの目が見えるようになったのだと話をしたに違いないのです。そしてその言葉を聞いて、喜んで語り伝えた人びとがいたのです。

     エリコの町で過越の祭りが近づいています。このエリコの町は、当時の交通の重要拠点でした。あの有名なヘロデ大王が、冬の別荘をここに造って、その巨大な建物の遺跡が今でも残っていると言われます。多くの祭司たちは、このエリコに住んでいました。過越の祭りが近づいて、巡礼たちが通ります。祭司たちも総動員されますから、それらの人びとが群れをなすようにして、エルサレムへの道を急ぎます。そのエリコの町を出たばかりの道端に、物乞いをする人がずらっと並んでいました。埃っぽい道端にうずくまっている物乞いが、身を低くしています。盲目なので何も見えません。しかし、目が見えないだけ、聴覚は敏感です。人びとの雑踏、足音、そしてそこにイエスが近づいて来られることも耳でわかります。あのナザレのイエス、ダビデの子イエス、このイエスは自分と同じような不自由な状態にあった者の癒しを次つぎとなさいました。そのイエスが遂にこのエリコに来られ、エルサレムに上ろうとしておられます。そのイエスの一行がバルティマイのところに近づいて、ざわざわとした音が聞こえ始めます。

     バルティマイは、落ち着かなかったと思います。できることならば自分も助けてほしいと思ったでしょう。大声で叫び始めます。イエスがどこにおられるのか、見えないだけ不安です。ですから、イエスに聴いていただきたい一心で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。人びとは黙らせようとします。この男に邪魔されたくないと思ったでしょう。目が見えない、それは、確かに不確かなことだと思います。そこに「安心しなさい」という言葉が聞こえて来るのです。

     先ほどエレミヤ書第29章を読みました。そこにこういう言葉が語られていました。「そのとき、あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う」。

     ここでも主イエスは、自分の名を一所懸命求められるこの男を起こしたかったのではないでしょうか。イエスのところにバルティマイが行くと、主イエスは「何をしてほしいのか」と言われました。彼が願うのは目が開くことだけでした。ところが主イエスは、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言ったその願いを、どう受け止められたかというと、「行きなさい」とだけお答えになりました。目を開けよう、とおっしゃったのではありません。行きなさい、あなたはもう立てる、独りで行ける、だから自分の道を歩いて行きなさいと言われたのです。

     そしてマルコは更に書いています。この男は立ち上がって、「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と。その「道」というのは誰の道なのか、それを新共同訳がはっきり理解して訳出したのです。〈主イエスの道〉です。エルサレムに進んで行かれる〈主イエスの道〉であって、その道に歩いて行かれる主イエスの後に、この男がついて行ったというのです。そしてこれに続く第11章1節以下で、主イエスのエルサレム入場が語られ、主イエスの受難物語が始められるのです。

     このバルティマイの物語は、私たち一人ひとりの話です。バルティマイが皆に喜んで自分の話として聴かせたのを、皆喜んで聞いて、あのバルティマイさんという人にこういうことが起こったのだと自分のことのように語り伝えて、この記事が生まれたのであるとすれば、それは私たちも語り直し、語り伝えることができるし、「安心しなさい、あなたがたは主イエスに呼ばれて語ることができた」と言える、神の力ある言葉を私たちにも語ってくださる主イエスが今、私たちと共にいてくださることを信じて歩みましょう。お祈りいたします。