カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の悲しみ

    2018年8月19
    イザヤ書5:1~19、マルコ12:1~12
    関 伸子牧師

     マルコによる福音書第12章の1節以下に、主イエスがお語りになったぶどう園の農夫たちの譬えが記されています。これに併せてイザヤ書の第5章を読みました。そこにも神の民イスラエル、ユダヤの人びとの社会が、預言者イザヤによって、ぶどう畑に譬えられて語られているのを読みました。

     自分たちが神の民であることを知る彼らにとって、やはり自分たちがぶどうの園であると、主なる神が言われたということ、それは既に心に焼き付いていることであったと思います。だから主イエスがここで、イザヤ書の言葉をなぞるように語り始められた時に、ただ、主イエスの言葉に耳を傾けて聴くだけではなくて、預言者イザヤの言葉が併せて響きだして来るのを聞き取ったに違いないと思うのです。
    しかし、それだけに、おそらく聞いている人たちの中には、あれ? これは預言者イザヤの言葉とは少し違う話だ、と聞いた者もいたのではないかと思います。

     2節に「収穫の時になったので」とあります。「収穫の時」というのは、何年か経って、そのぶどう園の経営が成り立つようになった頃と考えてよいと思います。当然そこでは実りが予定されている。しかもこの主人は、出かける時に自分でぶどう園を作っていったのです。十分な資本をそこに注いだ。そして垣根を作り、搾り場を掘って、見張りの人が必ず立たなければならないやぐらを立てて、整えた。実りの約束されたぶどう園を預けた。言うまでもなく、この主人は父なる神のことだと主イエスはおっしゃった。ここに主イエスのこの譬えのひとつの意味があります。

     主イエスが教えてくださった信仰の心に従って言えば、神が私たちに預けてくださった私たちの世界、私たちの人生は、不毛なものではありません。豊かな実りを結ぶように神が全部整えて私たちに預けてくださったのです。だから私たちが神を信じた時に、この世から逃げ出さない。かえってこの世の中に飛び込んでいく。この世を精一杯生きる心を神から与えられる。ここを間違えてはいけないのです。

     そこで、その次の問題は、主イエスはいったいここで何を問うておられるのかということになります。イザヤ書第5章8節以下に明らかに示しているように、このぶどう園を荒れ果てたものに替えてしまっている人びとがいるということです。イザヤ書第5章12節、「だが、主の働きに目を留めず 御手の業を見ようともしない」。

     神から預かっているぶどうの園をからしてしまっているのは誰か。主のわざが見えなくなっている人です。なぜ見えなくなっているか。見ようとしなくなったからです。おごりたかぶっていたために、富の中にいたがために、見ようとしなくなったということです。この譬えはその意味で「主イエスの悲しみ」の訴えの言葉です。

     殺された僕たちは、明らかに代々の預言者です。この預言者たちは次から次へと送られてきて殺された。これも預言者が既に語っていることです。預言者を殺すと言うのは神の言葉を聞かないということです。だからその子まで殺す。まるで神は存在していないかのごとくです。

     ここで神の存在を無視するということは、9節で主イエスが語っておられることを軽んじたということです。「主人が帰って来る」ということを無視するのです。主人の帰還、それは審きが始まるということです。

     この農夫たちは、自分たちのことだと知ったとき、彼らは自分たちの愚かさを恥じ、悲しむことができたはずです。主イエスの、この物語をしないわけにいかなかった。悔い改めるということは、「神の悲しみを知る」ということです。悲しみの涙を流さないで、わたしは悔い改めましたなどと言うことはできないのです。

     10節と11節に引用されている言葉は、詩編第118編の言葉です。家を建てる者、大工が、こんな石は役に立たないと捨てた。それが実は、しかし、新しい家を建てる時の最も大事な土台石になって、そこに新しい家が作られる。こういうのが主なる神がなさる不思議なやり方だというのです。

     詩編第118編は長いものですから、ここで全部を読むことはできません。初めに、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という言葉を繰り返すことから始まる。その賛美の重要な表現は、17節、18節に表れています。「死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった」。

     言ってみればぶどう園の譬えの話が続いている。主イエスははっきり言われた。主人が帰って来てあなたがたを滅ぼすと。しかし本当は滅びなかった。なぜか。主イエスが死んでくださったからです。主が死に渡されたから、わたしは死に渡されることはなかった。そして神の義は貫かれたのです。

     主イエス・キリストは、人を愛さない者は人を殺しているということをはっきり言われた。自らが傷つけられれば、やっきになって騒ぎ立てることを知っているけれども、人を傷つけるどころか神の心をどんなに深く傷つけているかということにつては、全く思いが及ばない愚かさの中にあるのです。しかし神の真実は変わらない。そうでなければこの教会54年の歴史はなかったし、私たちのこれからも生きる望みはなくなるのです。

     主が、ここで、このような譬えを、どんなに深く痛み、悲しみを湛えてお語りになったことか。しかも、そこでどんなに大きな喜びの中に私たちを招いていてくださっていることか。他のことについては、それがどんなことであっても鈍くなってかまわないでしょうが、このことについては、いつも敏感でありたいと思います。世間的にどんなに愚かになってもいいでしょう。このことについては、私たちはいつも鮮やかな目と神に対する信頼を持ち続けて生きて行きたいと、心から願うものです。お祈りをいたします。